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SECTION ONE
第1節
1. THREE TALKS
第1章 3つのよもやま話
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Music as an Aspect of the Human Spirit
人間の精神とは何か、を考える上での音楽
Read as a Radio Address in celebration of Columbia University' two hundredth anniversary in 1954.
コロンビア大学建学200周年記念によせたラジオでの祝辞として読まれたもの。
コロンビア大学建学200周年記念の一環として、「人間の精神とは何か、を考える上での音楽」というテーマを頂戴している。ほとんどの作曲家達が賛同するであろうと思うが、曲を新しく作る時は、それぞれ一つの素材となる主題(テーマ)をもとに、計画的なインプロバイゼーション、とでもいうべきもので成り立っている。主題が大きくなるほど、それを十分成熟した形まで持ってゆくのは、困難になってくる。今日私が頂戴したテーマ(主題)は、実に大きい。気乗りしないのでお断りしようと思いかけたところ、ふと頭によぎったことがある。作曲家の一人として、私は日々まさにこのテーマに取り組んでいる。つまり、この表現活動の手段である音楽とは、人の心の基本的欲求なのだ。一見すれば、私がしている楽譜を書くという行為は、五線紙に小さな黒丸を書き記しているだけのことだ。だが実際は、ちょっと考えてみると、私がしていることは、芸術としての音楽の創造という、誠に人間だけが成し得たことの一つなのだ。実は私は、30年以上作曲に取り組んでいるが、この間、音楽の持つ、表現力の偉大さ、人の深い心の源を音にする力、これらに対する畏敬の念は、全く色あせない。
話題が広範囲にわたりそうで、どこから手を付けようか難しいところだ。まず初めに、音楽とは何か?からいくとしよう。この問いかけは、これまでも幾度となくなされている。出されてきている数々の答えは、どれも完全に満足いくものとは言えないような気がする。なぜなら音楽と呼ばれるものは広範囲にあり、あまりにもそれは膨大で、それがもたらす効果も、あまりにも多種多様で、一言では定義できない。人間に及ぼす物理的なインパクトを説明するのでさえ、到底簡単ではない。例えば、耳の不自由な方に、音楽芸術とは何かをどうやって説明したらよいか。単音と和音は、効果がどう違うのか、比べて説明するのも十分難しい。交響曲一曲丸ごとキチンと網羅して説明し切る方法は?分かっていることと言えば、何らかの言葉では説明できない理由で、多くの人は、理路整然と作り込まれ、落ち着いた音程のサウンドには、共感的に心を震わせる、ということだ。こう言った響や音は、器楽にせよ歌にせよ、ソロでもアンサンブルでも、人の心にある種の感覚を引き起こすものだ。それは、大いなる感動であったり、素直な喜びであったり、ときにはイラつくこともあるだろう。それが何であれ、良く作り込まれた楽曲は、聴き手に何も感じさせず終わってしまうなどということは、滅多にない。ミュージシャンは音楽によって発生した感情には、強く反応するのであり、だからこそ彼らは、日々の生活になくてはならない存在となるのだ。
言葉は沢山並べてみたものの、内容がほとんどないことは、勿論わかっている。音楽とは何か?と、人生とは何か?は、両方とも語り切れない問題だ。しかし、音楽とは何か?が語り切れないとしても、こちらについては、解明が期待できることがあるかもしれないのだ。それは、音楽という芸術が、どのようにして人の精神を表現するのか、その方法である。科学者ぶって申し訳ないが、私が曲作りに際して何をしているかについて、見てみよう。いざ言ってみたが、自分でも少々違和感を感じている。というのも、自分が作曲中何をしているかなんて、客観的な観察は相当困難だからだ。こんなことをするとしっぺ返しが来るもので、それは音楽的な思考が切れてしまう危険性があることだ。とはいえ、とてもじゃないが、私は作曲中は、普通の意味で、自分の考えていることを明確に頭の中に描いているなどとは言えない。と言って、ボンヤリ悶々としているわけでもない。自分としては、感情のエッセンス(訳注:余分をそぎ落とした本質)に注目しているつもりである。この「エッセンス」という言葉を強調しておく。というのも、感情のエッセンスというものには、一切の曖昧さは無いからだ。なぜなら、これらは作曲家の頭の中に、音楽的にどう表現するかを具体的に示してくれるからだ。これらは最初から明確なものではあるが、言葉で説明ができない。私が言う処の、こういった感情のエッセンスであるとか音楽的な思考のエッセンスであるとかいうものは、自らに命を与えてくれるよう懇願しているように見える。そして創造主たる作曲家に対して、こう願い出る。俺達に理想の収まり処を探してくれ、あたし達に形や色や中身を導き出してちょうだい、そうすれば自分達の創造力溢れる力を発揮できるから、とね。このようにして、人間が生きる上で大変重要な様々な思いというものが、音を素材にした誰の目にもわかりやすい織物のように形を成してくるのである。
目に見える形のない「音」という素材が、このように私達にとって価値あるものを持つことが出来るというのは、実に興味深いことではないだろうか。音楽という芸術が示してくれる、人間の能力。それは、日々経験した内容を、音という形にすること。出来上がった音には、一貫性があり、向かって行く方向があり、動いてゆくことが出来る。そしてそれは、自らにあたえられた命を、時間の流れと物理的空間を伴って、意味ある自然な方法でさらけ出してゆく。人の命と同じように、音楽にも終わりはなく、常に創造を繰り返されるのである。この様にして、人間の精神の最も素晴らしい瞬間というものが、いかなるものかを知るには、音楽の最も素晴らしい瞬間を耳にすればいい、ということになる。
ここでふと思うことがある。人間の精神を謳歌する手段として、音楽と、その他の芸術との違いは何か?程度の差こそあれ、音楽の方が、絵などグラフィックや文学よりも、知的だろうか?音楽は、単に人の心をメロメロにするために存在するのか?それとも我々人間から主導権を握って扱うべきものなのか?ウィリアム・ジェームズが「心理学の基本問題」の中で記したことが興味深かった。このアメリカ人心理学者が恐れているのは、音楽をただボーっと聴いていると、人はダメになってしまうのではないか、ということだ。半分は冗談で言っているのだろう、と私は思う。というのも、彼は解決策を述べている「演奏会で心に抱いた感情を引きずって、心がさいなまれないようにしなさい。そのせいで、帰りの地下鉄の中で、したくもないのに思わず女性に席を譲ってしまうなどといった、不本意な行動に走らないようにしなさい」。そのような力を持つ音楽であるが、彼によれば、そのまま音楽を聴いても大丈夫な人が二種類いるという。一つは自分自身で演奏する人。もう一つは純粋に知的な方法で聴く能力のある人。「純粋に知的な方法で聴く」などできるのか?まずもって無理だ。能力があってもなくても同じ。もっとも一つだけ同じではないことがある。それは、能力のある人の方が、おそらく音楽の表現方法を余計に知っている、ということ。だが違いはそれだけだ。
他の芸術と同様に、音楽も、私達の心を夢中にするようデザインされている。音楽は私達の心の中へと真っ向から攻め込んでくる。従ってなだれ込んでくる音符の海に溺れて行方不明にならないよう、音が飛び込んで来た瞬間に注意を向ける準備が、いつどこでもできていなければならない。作曲家の作ったものが耳に飛び込んでくると、意識が働き愉しくなって、ボール遊びをするかのように聞こえてくる様々なメロディを愉しみ、細かな音の数々から重要なものが解き放たれてきて、ハーモニーの変化が起こる度に進む向きを変え、様々な楽器が彩る微妙な音色の変化が新たに発生してもキッチリそれを映し出してゆく。音楽を愉しむには、知的な注意力が必要だが、頭の体操をしようというのではない。ゲームでもするかのように、音楽的な頭脳をフル回転させても、それ自体が目的になってしまっては、ごく一部の専門家が楽しいと思うだけだ。でも音楽的に頭脳をフル回転させる本当の価値は、リズムのパターンやメロディの作り方、そしてハーモニーの持つ心を揺さぶるする力や表現豊かな様々な音色が、私達の深層心理の、そのまた一番深い所まで、突き刺さって届いた時に、初めて生まれるのである。実際、頭で考える部分と心で感じる部分がこうしてストレートに結びつき、音楽的な頭脳のフル回転の仕方をするその行く手には感情面での目的の達成があってこそ、音楽は本来の特徴を持つ力を発揮し、他のどの芸術とも違う存在となるのだ。
音楽の力はとても強く、そして同時にとてもストレートなので、今も昔もその在り様は変わらないだろう、と人は思いがちである。ヨーロッパ音楽の進歩の凄さは、その歴史的起源を、少しでもいいから良く見ないと、理解することなどほとんど不可能だ。音楽学者達によると、キリスト教の教会音楽は、最初のうちはモノディック、つまり、メロディラインは一つしかない曲作りをしていた。これが開花したのが、グレゴリオ聖歌である。しかし考えてみれば、当時の作曲家達が複数パートのメロディを持つ音楽を書こうとしたのは、相当な思い切りの良さを要したことだろう。この新しくて奇抜な曲作りの発想は、約1000年前に幅を利かせるようになったが、この驚くべき方法へと踏み切ったきっかけは、今でも謎である。私達のヨーロッパ音楽が他の音楽と異なるのは、主にこの一点「我々に備わっている能力として聞いて楽しめる音楽が持つ構造がポリフォニー、つまり、個々に独立した音が同時に鳴っていて、同時に、お互いに寄りかかり合う対位法に基づく複数のメロディ」である。新たな対位法という手法によって、それまでゆっくりとした音楽の発想の成長の後継となったことは、素晴らしいことだ。なお、ついでに付け加えるなら、今日リズムやハーモニーをかなり自由に駆使できる私達現代人は、新規開拓の喜びを味わうという点においては、当時の作曲家達よりも、はるかに優位に立っている。思い切った実験に踏み切った、対位法を使い始めた頃の作曲家達。彼らの音楽はある種の堅苦しさとか控え目さといった雰囲気を持っていた。その時の踏切によって、ルネサンスの豊饒な文化が生まれたのだ。音楽表現が発達したことで、深みと多様性、そして優雅さと愛らしさが音楽に生まれた。1600年までには、ヨーロッパ大陸においては、神聖な音楽も世俗的な音楽も、その絶頂を迎えた。これはバッハが曲を書きだす100年前のことであることも、特筆すべきだろう。この多声部による音楽の中から、ご存知の通り、声楽曲も器楽曲も、和声の科学的分析方法も、徐々に発展が始まった。自然な成り行きとして、この結果、各個独立したメロディラインが一緒に響くことにより、コードが生まれることになる。
そして、予想もしなかったことが起きる。こうして生まれたコードやハーモニーが、キチンと構成されると、それ自体が自活を始めたのである。それまで大雑把だったハーモニー進行は、何かを生み出す力を持つものとして、だんだん重要性が増してきた。そしてついに、ポリフォニーそれ自体が、ハーモニーの下支えを得たフレーズの重ね合わせとなったことで、音楽における主導権を独り占めできなくなった。これに貢献した巨匠達の中でも、J.S.バッハは、ポリフォニーによる仕組みを、ハーモニーという推進力で動かすという、技術の組み合わせを完璧に成し遂げたことにより、音楽の歴史に偉大な業績を残した。その後に続く音楽発展の動きについては、良く知られている所であり、ここでは省略する。しかし忘れてはならないこと、それは、バッハ抜きにはその後の音楽の黄金時代は始まらなかったこと、そして、彼以降、新しい世代が出てくるたびに、特徴ある作曲上のアイデアが生まれたのである。バッハが彼以前の音楽的手法を総まとめしたことにより、ハイドンやモーツアルトの時代に、さらに解り易くて躍動感のあるスタイルの登場を加速させた。ハイドンやモーツアルトといったウィーン楽派の作曲家達に続いたのが、19世紀の情熱あふれるロマン派である。そして、その後ここ50年間(訳注:1900年代前半)で台頭したのが、アンチロマン派の動きであったり、音楽の技術面でのネタがあらゆる面で拡大してゆく動きであったりするのだ。
過去の名曲ばかりに目を奪われることなく、欧米以外でも、音楽表現は膨大で、しかも私達の音楽との違いも鮮明だ。アフリカの太鼓はエキサイティングなリズムを刻む。中東の歌唱法は複雑で感情表現が強い。インドネシアの器楽合奏は長大だ。中国と日本では鼻にかかったようなサウンドを作り出す。他にも沢山あるが、どれもみな私達欧米の音楽とは全く異なり、私達の音楽がすべてだ、などと思いたい気持ちを木っ端微塵にする。とはいえ、私達の音楽も含め、どの音楽もそれぞれの方法で、人の気持ちの大切な部分を映し出しているのだ、ということを分かっておくべきだ。自分達の音楽と他の人達の音楽との共存を図る。この取り組みが足りないと、自分達の音楽もみすみす貧弱なものとなってしまう。
みすみす貧弱になってしまうのは、これだけが要因ではない。私達が興味を持つ音楽が、歴史上比較的限られた時期の作品に限られてしまっていることもある。普段耳にする音楽作品の圧倒的多数が、200年間、それも18~19世紀に集中している。他の芸術分野では有り得ないことであるし、ましてや容認されもしない。他の芸術分野と同じように、音楽にも過去、現在、未来がある。しかし他の芸術分野と違って、音楽は特殊な「持病」に苦しんでいる。それはすなわち、過去の、それも非常に限られた時期の過去の作品に対する過剰な興味関心の持ち方だ。今どきの多くの人達は音楽鑑賞をする上で戸惑っているように見える。将来にわたっても過去の音楽を聴くのか?と思っているようだ。当然この結果、今時の、そして理不尽な、これから出てくる音楽に対する興味関心が痛々しいほどにないがしろにされている。
音楽に対する興味関心が、最も楽観的な予想よりもはるかに大きく高まっている今の時代において、一般の方達が音楽芸術に対してどう思っているかという、この問題は今や危急に解決が求められている。ラジオによる芸術音楽の放送、レコード産業の拡大、洗練さを増す映画音楽、テレビによる歌劇やバレエの放映、といった具合に、音楽を聴く習慣に真の変革が起こりつつある。芸術音楽は、もはや限られた上層階級のモノではなくなっている。ここ30年間で徐々に起きているこの変化が、もたらすものと損ねるものについては、誰一人測りきれていない。「もたらすもの」の方はハッキリしている。「損ねるもの」を測る上で把握すべきことは、膨大な数の人々が焚き付けられ、音楽とは、毎日のストレスを遠ざけ慰める手段としか思われていないことだ。そこで使われる名曲の数々を防御壁にして、現代音楽の「侵攻」を食い止める、というのだ。今日音楽は、未来の彼方に見える地平線に「慣習」という暗雲が立ち込めている。何百年も前からの音楽ばかりずっと推し続けるものだから、今時の音楽表現の地力がひたすら損なわれている、という状況では、音楽の未来は危険が増すばかりだ。
作曲家は誰もが、自分の生きる時代と場所の制約の中で、聴き手のニーズに応えるべく、曲を作る。しかしどういうワケだか面白いことに、音楽愛好家達というものは、最高の音楽というものは、時代と場所の制約など受けるはずのない永遠のものだ、と信じて疑わない。しかし、これが事実といかにかけ離れているか、説明するのは簡単だ。作曲家が書く音楽からは、その作曲家の人生経験が見えてくる。これは、全ての創作芸術にも言えることだ。故に、作品が生まれた時代の美に対する感覚が、つぶさに見て取れるのである。作曲家は自分が生きている時代の求める必要性が頭に入っているはずであるし、そしてその音楽は、否定的な見方であったとしても、それを反映している可能性が非常に高い。作曲家は、昔の音楽しか聴かない聴衆だけを相手にしている、などと思い込むのは間違いである。「今」を音にする作曲家と、「昔」を聞く聴衆、このジレンマは消える気配がない。おかげで新世代の作曲家達は、本来ならいいお客さんになってくれるはずの聴衆から、ますます距離を空けてしまっている。
何とも矛盾した話である。今の時代、サウンドに関する媒体には、人々は強い関心を持っている。小中高生は誰でも「音速」だの「超音速」だのと言う言葉になじみがあるし、周波数だのデシベルだのというのも、当たり前に会話で使う。なので、作曲家などトレンドリーダーの役割を期待されそうなのだが、逆に音楽界では、非主流派として、隅に追いやられている。公平な見方をしてしまえば、現在そこいらで耳にする音楽の8割強が過去の曲である。楽曲を後世に残すには人前で演奏しなければならないのだから、音楽愛好家たちが現代音楽に対して関心を示してくれない傾向にある以上、現代音楽の作曲家の価値は自ずと下がっている。そんな状況では、作曲に人生を懸けるには頑固さと気迫が必要だ。
欧米の作曲家達は、ハッパも励ましも無くても、これまでずっと音楽の開拓の最前線を、前へ前へと進めてきている。その点、20世紀は豊作だ。新たな表現を求めた結果が、他の芸術分野に負けていない。帳簿には収入の欄にこんなことが記録されるだろう。まず、リズムを作る上での新発見の自由を得たことだ。それまでの「リズムはほどほど控え目に」との縛りは、チャレンジ精神旺盛なリズムの組み立て方の可能性を求めるやりかたに取って代わった。それまでの、同じ拍子でずっと小節線で刻んでゆく縛りは、もっと複雑で、もっと迫力と変化があって、そして何より、はるかに予測不可能な性格を持つリズムの推進力を与えられるようになった。一番最近では、一部の作曲家達が試みていることに、作品の基本的なつくり方を、その作品が持つリズムの要素に基づいたものにする、というのがある。これなどは明らかに、純粋にリズムだけのロジックという新しいやり方を予想させるものだが、上手く行くかどうかは、これから見えてくることだろう。
それから、ハーモニーの許容範囲も、現代音楽の作曲に際して大いに拡大している。型にはまった従来の慣習から離れ、ハーモニーの作り方は、適切かつ誰もが納得するようなやり方であれば、どんな方法でも良しとするという段階まで来ている。「協和音」と「不協和音」という言葉は、今は相対的な意味を持つものとなり、「これが協和音」「これが不協和音」という基準はもはやない。調性音楽というものの様々な原則は、明確な見分けが殆どつかなくなっている。それもこれも、12音作曲技法が全て葬り去ってしまったからだ。最近の若手作曲家達は、いささか耳障り気味ともいえるくらい自由な音の響による楽曲を聴いて育ってきている。とはいえ、今は試行錯誤の混乱が続いている中から、将来新たな指針が出来上がることだろう。ハーモニーの実験と並行して、メロディーについても、音域、音の高低の複雑さ、曲中に出てくる様々な素材を組み合わせて一つの作品にまとめ上げるための要素、こういったことについての見直しが行われている。ごく一部の作曲家達だが、目新しい作曲コンセプトをこの度打ち出している。athematic musicと言って、曲中メロディの素材が、一度演奏されたらこれを繰り返さない作曲法である。こういった取り組みは全て、従来の音楽形式のもつ曲を構築する原則に対する問題提起の一環として行われている。これは明らかに、曲作りのより新しい在り方がもたらした結果だ。こうしたロジックにより導かれる結論は、音楽において、長きにわたって存在した曲作りの原則が撤廃され、新しい方向性が生まれたことを意味している。
音楽の将来はどうなるのか、そう考える時、カギとなることが一つある。楽器の性能についてだ。これはよく忘れられがちな要素だ、と私などは思う。こんなことが起きないだろうか…ある日目が覚めたら、お馴染の弦楽器群・金管楽器群・木管楽器群・打楽器群が、高性能の電子楽器、それも、12音よりさらに細かく分けた音や、全く新しい音色が出せるものに取って代わっている、しかもそれは、演奏者の余計な好みが入らず、作曲者が直接全てコントロールできる、なんて…。こういう機器は、演奏できるリズムが、演奏者の能力の限界から解放され、人間の耳に聞く力の向上を求めてくるだろう。今までなかなか破れなかった壁を突破した時代においては、古い頭で昔からのやり方で曲のサウンド作りなどできると期待する方が間違っている。ここで、口にするのが多少恐ろしい、将来の予想を一つ申し上げる。というのも、これはリヒャルト・ワーグナーがかつて好んで予想したことだったからだ。全ては推測の域を出ない。一つだけ確かなことがある。たどり着く方法は何であれ、音楽と人生は常に手に手を取って同じ道を歩んでいる。この地球上に人間の精神が息づく限り、生命力を感じされる音楽というものは、これからも生命力を帯び、そして保ち、そして表現する意味をそこに与えることだろう。