Two Worlds of Music
Date of first publication:_ 1946
Author:_ Berta Geissmar (1892-1949)
ナチスと戦争~2人の指揮者と共に
フルトヴェングラーとビーチャムを支え続けたマネージャー
初版:1946年 著者:ベルタ・ガイスマー
NEW YORK
Creative Age Press, Inc.
COPYRIGHT 1946 BY BERTA GEISSMAR
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本拙訳の原本はこちらからどうぞ
CHAPTER THIRTEEN
1933
304
Even in the early days of Nazidom the falsification of values was already evident. “Right” and “wrong,” “good” and “bad” had lost their meaning.
ナチスのイデオロギーが国内に広がり始めたばかりの頃でさえ、物事の価値基準である「正誤」「善悪」が、曲解されたりウソにまみれたりと、本来の意味を失っていました。
305
If only the outside world had taken a firmer attitude from the beginning, things might not have come to such a pass, and the surprisingly few courageous men in Germany who openly disagreed with the Nazis might have been better supported in their effort to stem the tide. Germany was still very dependent on foreign opinion, and everything connected with foreign countries was at first handled gingerly by the Government, not because of timidity, but as part of the whole political maneuver, a tactful camouflage for relentlessness.
もし初っ端から、国外からの毅然とした姿勢が示されていたならば、こんな運命をドイツが辿ることはなかったでしょう。そして、ナチスに面と向かって異を唱える勇気のある人々は、驚くほど数が少なかったのですが、時流にあらがう努力の、より良き支えとなるはずでした。当時のドイツは、依然として国外の意見に左右される状態でした。そして諸外国と絡む関係のことは、どれもこれも、政府はまずは極めて用心深く扱いました。それは怖気づいてしまうからではなく、政治的な持って行き方全般の中での対応であり、実はその後容赦のない対応となるところを、巧みにカモフラージュすることができていたのです。
306
Though Furtwängler was desperately disturbed by the course things were taking, he still did not think it irreparable. Furtwängler sometimes returned quite hopeful from his numerous interviews with Goebbels, Hitler, and lesser authorities, in which he tried to explain the fatal consequences of racial and party policies on Germany’s cultural life. He underrated the tenacity and ruthlessness of the Nazis. He did not realize that they only pretended to agree with him to keep him quiet, and that they put him off with empty promises while in fact they did only what they wanted. Because he was treated and listened to with respect, he imagined that he had authority, and continued to adhere to his belief that all could be righted and that musical life would, after all, be able to function free from the “Aryan clause.”
様々な事の成り行きが、フルトヴェングラーにとっては絶望的に踏みにじられた状態でありました。それでも彼は依然として、修正回復できないことは思っていませんでした。フルトヴェングラーは、ゲッペルスやヒトラー、それにその下の官吏や幹部らと、数えきれないほど面会しては、ドイツの人種政策やナチスの政治方針が、ドイツの文化の有り様に致命的な結果をもたらすことを、必死に説明してきました。時には「かなり期待が持てるぞ」という気持ちで、戻ってくることもありました。でも彼は、彼らは絶対に折れないことと、冷酷極まりない連中であったことについて、甘く見ていたのです。彼の言い分に賛同の意を示すのも、ただ黙らせるためだと気付きませんでした。中身のない約束をして追い返した結果、彼らは引き続きやりたい放題やるだけ、そんなことにも気付かなかったのです。それもこれも、丁重にもてなされ、敬意を以て話を聞いてもらえれば、彼も「自分には権限が認められている」と思い込みます。そうやって彼はずっと、全部うまくいって、「アーリア人化」などというものから解放されて音楽界は機能するようになる、そう信じ続ける羽目になったのでした。
307
Many prominent musicians had fallen prey to the first “purifying” waves set in motion by the Nazis. No “law” in this connection had yet been passed, but there was hardly a concert institute or opera house that had not given “indefinite leave” to a conductor, director, or manager. Others had simply retired of their own accord. The same thing applied to the universities and all similar institutions. While a great number of people disappeared from public life, others profited by the vacancies. Corruption flourished, and actions against prominent people of Jewish descent sprang up like mushrooms. New “stars,” hitherto allegedly “suppressed” by the Jews, appeared. Soloists, composers, conductors, and teachers, who by pre-Hitler standards had not been considered worthy of public notice, now rose in the glory of their Party membership and demanded their due. One day, for instance, it was intimated to Furtwängler that the Minister of Propaganda would like to see a certain musical work performed. It was a work that Furtwängler had declined to accept many years before. The composer was one of those nonentities who exist in all aspects of life: now his opus reappeared, dedicated to Goebbels, and the composer revealed himself as a full-fledged member of the Party. In spite of this, however, the work remained banned from Furtwängler’s programs.
ナチスによって仕掛けられた最初の「人種浄化」の波に、多くの一流どころの音楽家達が、恐怖の念に駆られてしまっていたのです。この件に関連する「法律」と名のつくものなど、まだ施行されていませんでした。それなのに、演奏会主催団体や歌劇場はどこもかしこも、所属の指揮者や音楽監督、あるいは運営責任者に対して、「無期限停職」を通告するありさまでした。仮にそう言われなかった人達の中でも、単に自分の方針に合わなくなったからということで、辞めてゆく動きがありました。同じようなことが、各大学であったり、似たような関係機関で全て起きていたのです。とてつもない数の人々が、公の場から消えていった一方で、その空いた席の益を得た者達も、沢山いました。あちこちで色々なことが崩れてしまい、高名なユダヤの家系・一族に対する様々な行為が、きのこ雲があちこちで立ち上るように発生してたのです。新たに「スター的存在」とされる者達が、「今までユダヤ人共に抑圧されていた」などと、本当かどうかも分からないようなことを弄し、姿を現してきました。ソロ奏者、作曲家、指揮者、それに指導者達のうち、ヒトラーが政権を取ってしまう前までは実力不十分と見なされていたところが、今やナチス党の威光をかさに着て台頭し、それまで得られなかった栄に浴することを求めてきたのです。例を一つ挙げましょう。例の啓蒙宣伝大臣が、ある日フルトヴェングラーにこんなことをそれとなく言ってきたのです「ちょっと演奏してほしい曲があるのですが。」その作品は、フルトヴェングラーが何年も前にダメ出しをしたものでした。作曲者は、先ほど書きましたような凡才の一人で、どこの界隈にもこういう人物はいる、というような輩でした。この期に及んで彼の手がけた一品が再浮上してきたのは、ゲッペルスにこれを献呈したからであり、作曲者自身は自らを「身も心もナチス党に捧げております」と申し開きをしていたのです。しかしながら、そんな働きかけがあったにもかかわらず、この時はその作品は、フルトヴェングラーの演目からははじかれました。
308
Gradually the outside world became aware of what was going on, and raised its voice in protest. Prominent artists such as Bodanzky, Gabrilowitsch, Kreisler, and others sent a joint telegram to Hitler supporting their colleagues. Toscanini canceled his participation in the Bayreuth Festival. The fact that Hitler wrote a personal letter to him urging him to revoke his decision offended many Germans, because while Hitler was courting the Italian anti-Fascist, he was expelling many men of worth from Germany.
ドイツ国内で何が起きているのか、諸外国が徐々に気づき始め、これに対抗する声が上がりました。オーストリアの指揮者アルトゥール・ボダンツキーやロシアのピアノ奏者オシプ・ガブリローヴィチ、それにオーストリアのバイオリン奏者フリッツ・クライスラーといった主だった音楽家達に、他の音楽家達も加わって、連名でヒトラーに対して電報を打ち、ドイツ国内の音楽仲間達を擁護しました。バイロイト音楽祭への出演をキャンセルしたトスカニーニに対し、ヒトラーは親展の手紙を出し、キャンセルを撤回するよう促しますが、それが多くのドイツの人達を傷つけたのです。イタリアで反ファシズムを唱える男を招待するくせに、自国の貴重な人々を数多く追放しているのですから、当然です。
309
Personal interest in music and musicians has always been deep and strong in Germany and Austria. It was an essential part of life. No wonder that in all sections of the public there was a growing unrest, much of which surged up to Furtwängler. He still clung to the belief that the upheaval in the musical life of Germany could not go on indefinitely, and felt it to be his sacred mission to use his prominent position to fight for the return to normal conditions. With special care, therefore, he attended to his program for the 1934 season.
ドイツやオーストリアでは、一人一人が音楽と音楽家に対して、これまでもずっと深くて強い興味関心を抱いてきています。日々の暮らしの欠かせない部分だったのです。国のあらゆるところで、不安感が増してきたのは当然のことで、それが巨大な波となって、フルトヴェングラーに押し寄せてきました。そんな彼は、この時になってもまだ信じて疑わなかったのです。こんなにもドイツの音楽事情が大きく変わってしまったのに、そんなの永久に続くことなどあり得ない、自分は特別な立場に在るのだから、また普通の状態に戻すべく戦うのが、自分の神聖なる務めなんだ、そう感じていたのです。そんな事もあったか、彼は1934年のシーズンに向けてのプログラムづくりに、特別な手立てを講じました。
310
Preparations for the Berlin Philharmonic concerts always began a year ahead. Nobody was ever allowed to book the Philharmonie before the ten Sundays and Mondays for the Philharmonic general rehearsals and concerts had been fixed. Then invitations were issued to the soloists. The same procedure was followed in 1933. Everybody was fully aware that the choice of the soloists for the Berlin Philharmonic concerts in the first season under the Nazi régime would be a test case. Furtwängler, naturally, always chose his soloists to suit his programs, and was determined to keep these famous concerts free from interference.
「ベルリン・フィルハーモニー・コンサート」の準備は、常に開催1年前に始まりました。会場のベルリン・フィルハーモニーの会場利用予約は、日曜日と月曜日、それぞれ10日ずつ楽団が全体練習と本番を確定するまでは、誰も入れることはできませんでした。それが済むと、次に協奏曲等のソリスト達への声掛けがなされます。1933年も全く同じ手順で準備がなされました。ナチス政権のもとで、「ベルリン・フィルハーモニー・コンサート」のソリスト選びがどうなってゆくのか、この時の状況がその後のテストケースとなることは、誰もが認識していました。誰をどのように選ぶかは、当然フルトヴェングラーが、自分が決めたプログラムにピッタリ来るように、そして何が何でも、この皆に広く愛されるコンサートが、何者にも邪魔されない状態を保つ、というわけだったのです。
311
In addition, he felt sure that if the great international “non-Aryan” artists played in Berlin, the provinces, like the Leipzig Gewandhaus and others, would be supported in their endeavors to uphold the tradition. He was also convinced that once prominent “non-Aryan” artists appeared again, the lesser ones would also have a chance to survive the crisis.
加えて彼には、確信がありました。それは、「アーリア人種ではない」国際的に活躍中の音楽家達が、ベルリンで演奏してくれれば、ベルリン以外のドイツ国内の他の地域、例えばライプツィヒ・ゲヴァントハウスのようなところでも、これまでの伝統を守るべく、自分達の努力でこれが維持されるだろうということです。同時に、超一流どころの「アーリア人種ではない」音楽家達が、以前のように舞台に登場するように、一旦なってしまえば、「超一流どころ」でない「アーリア人種ではない」音楽家達が、この危機的状況から生きながらえるチャンスが生まれるのでは、とも確信していたのです。
312
After an understanding and moderate authority closely connected with the Reich Chancellery had agreed to his suggestions, Furtwängler personally wrote his invitations to Casals, Cortot, Josef Hofmann, Huberman, Kreisler, Menuhin, Piatigorsky (former principal cello of the orchestra), Thibaud, and Arthur Schnabel. The replies he received from these great artists were not only highly interesting, but also profoundly moving. Menuhin, then still a minor, immediately refused by cable and his father explained this refusal in a long letter. Kreisler, Piatigorsky, and Thibaud also declined. Casals, a man of heroic character, wrote a letter of great dignity full of strong, personal friendship and understanding for the desperate struggle in which Furtwängler was engaged. But he said that he would not enter Germany until its musical life was normal again. Cortot refused on the spur of the moment, but later changed his mind and accepted.
フルトヴェングラーは、政府高官や閣僚級と近いつながりを持つような、理解を示してくれそうな穏健な関係筋から、彼の提案への合意を取り付けました。そして自らペンを取って招待状をしたためたのが、スペインのチェロ奏者パブロ・カザルス、フランスのピアノ奏者アルフレッド・コルトー、ポーランドのピアノ奏者ヨーゼフ・ホーフマン、ポーランドのバイオリン奏者ブロニスラフ・フーベルマン、オーストリアのバイオリン奏者フリッツ・クライスラー、アメリカのバイオリン奏者ユーディ・メニューイン、ウクライナのチェロ奏者で元楽団の首席奏者だったグレゴール・ピアティゴルスキー、フランスのバイオリン奏者ジャック・ティボー、そしてオーストリアのピアノ奏者アルトゥール・シュナーベルでした。この錚々たる顔ぶれからの返事は、大いに関心を集めたのみならず、心の奥まで沈痛極まりないものだったのです。当時はまだ駆け出しだったメニューインは、電報で辞退を伝え、父親が長文の手紙で辞退に至った説明をしました。クライスラー、ピアティゴルスキー、それにティボーも辞退を表明、カザルスは、仰々しい性格に似つかわしく、大いに威厳に満ちた手紙をよこしてきました。フルトヴェングラーへの強く親しく寄り添う友情の念と、彼が奔走していた苦難に満ちた戦いについての理解が、しっかりと溢れんばかりに示されてたのです。でもカザルスは、ドイツ国内の音楽事情が正常に戻るまでは、国境を入って行けないとしました。コルトーは当初自体を知らせてきましたが、後に考えを改めて、出演受諾を申し出てくれたのです。
313
In his invitations Furtwängler argued that art and politics were separate things, but in their replies, the soloists unanimously stressed the point that in spite of Furtwängler’s personal efforts, politics had intruded into German musical life, and all of them—“Aryans” and others—refused to accept privileges solely on account of their prominence. They would not play in Germany as long as equal rights were not accorded to everyone.
フルトヴェングラーは招待状の中で、音楽と政治は切り離そうと訴えました。でも彼らソロ奏者達が全員口を揃えて強調したのは、フルトヴェングラーが孤軍奮闘しているのは重々承知しているものの、政治は次々と音楽界へと侵害を続けている故、全員、「アーリア人種」もそれ以外も、自分の名誉のため、その一点においてのみで、今回の依頼は有り難いが、辞退させて頂く、ということでした。彼らは、音楽家一人一人に残らず平等な権利が充てがわれない限り、ドイツ国内での演奏は行わない、としたのです。
314
They doubted that Furtwängler could win his battle. They were right.
彼らはフルトヴェングラーの「孤軍奮闘」が勝利に終わることに懐疑的であり、その予想は的中してしまいました。
315
Furtwängler had been particularly insistent in his correspondence with Bronislaw Huberman, whom he had known through many years of mutual work in Berlin and in Vienna. Huberman was extremely popular in Berlin and was one of the few whose recitals could fill the Philharmonie several times in a season. However, he flatly refused to return to Germany. Furtwängler wrote him again a detailed, friendly letter asking him to consider their correspondence and exchange of viewpoints as purely private. In his opinion, he added, the mission of art was to bridge all gulfs; he wished Huberman could see his way to help him to make a start toward that end.
フルトヴェングラーが特にこだわったのが、ブロニスラフ・フーベルマンでした。彼とは長年に亘り、ベルリンやウィーンで一緒に仕事をしてきた、旧知の仲でした。フーベルマンのベルリンでの人気は凄まじく、1シーズンで複数回、コンサート会場の「ベルリン・フィルハーモニー」をリサイタルで大入り満員にできる、数少ない音楽家の一人でした。そんな彼でしたが、ドイツへ戻っての演奏活動は、キッパリと断ってきたのです。フルトヴェングラーは再度手紙をしたためました。純粋に一個人として、連絡を取り合い、意見をかわそうじゃないかと、丹念に、そして友人としての心を込めて、お願いする手紙をしたためたのです。そこに添えた彼の意見では、どんな溝でも音楽はその架け橋となる、そういう仕事を音楽は担っているじゃないか、その目的のための出発を切る手助けを、君なりに探してくれないか、彼はそのようにフーベルマンに頼んだのでした。
316
Furtwängler had written Huberman in a strong and sincere conviction. Fighting a brave and lonely battle, he fervently hoped that with the help of those who shared his feeling, he might overcome the unnatural measures threatening to strangle Germany’s artistic life. In all their measures the Nazis always referred to the “Voice of the People,” and he was sure that the people would warmly welcome the artists whom they had applauded for many years. He hoped that the great soloists with whom he was linked by so many unforgettable memories would help him to convince the new régime of what the people really wanted. What he did not realize was that the new régime did not want to be convinced.
フルトヴェングラーがフーベルマンに宛てた手紙には、力強さと、誠実さに溢れた自信が込められていました。彼はこれまで、勇敢に、そしてたった独りで戦ってきたのです。そんな彼が心から熱く願ったのが、彼と思いを共にする人達の助けを得ることでした。そうすれば、ドイツでの芸術活動を絞め殺してしまうぞと言わんばかりの、様々な不自然極まりない暴挙の数々を、乗り越えられるかもしれなかったからです。ナチスは、あらゆるやり口に置いて、「皆がそう言っているよ」と常に持ち出しました。そして彼には確信がありました。その「皆」は、これまで長年に亘り、音楽家達に拍手を贈ってくれている、故にきっと温かく迎え入れてくれるはずだと。ドイツの「皆」が本当に心から願う姿をしている、そんな、ナチスの後の新たな世の中が来ることを、彼がしっかりと確信できるよう、手助けをしてくれるのは、数え切れないほどの忘れ得ぬ思い出で絆をもつ彼らソロ奏者なのだと、そう願っていたのです。ただ、彼には気づいていないことがありました。それは、彼の言う「ナチス後の新たな世の中」なるものは、彼に「しっかり確信」されることを、望んでいなかった、ということです。
317
Huberman replied to Furtwängler and simultaneously gave his reply to the press. This reply has a message for the whole civilized world and deserves to be quoted fully. Huberman, like Furtwängler, wrote with passionate conviction:
フーベルマンがフルトヴェングラーに出した返事は、同時に新聞各紙にも送られました。フーベルマンがフルトヴェングラーに出した返事は、文明社会全てに対するメッセージが込められています。それ故に私は、ここで全文を引用するに値すると判断します。フーベルマンもフルトヴェングラーに負けず劣らず、情熱に満ちた確信をもって、この返事を書きました。
318 Vienna, August 31, 1933
Dear friend,
Permit me first of all to express my admiration for the fearlessness, determination, tenacity, and sense of responsibility with which you have conducted your campaign begun in April for rescuing the concert stage from threatening destruction by racial “purifiers.”
ウィーンより
1933年8月31日
我が友よ
「人種浄化」の破壊に脅かされる音楽演奏の舞台を救わんとして、恐れを振り払い、意を決し、粘り強く、そして責任感を持って、目的を達成せむと4月から展開している、そんな君に、私は先ずもって、熱き価値あるものと誉め讃えたいと思う。どうかお許し願いたい。
319
When I place your action—the only one, by the way, that has led to a positive result in the Germany of today—alongside that of Toscanini, Paderewski, and the Busch brothers, all of which sprang from the same feeling of solidarity and concern for the continuation of our culture, I am seized with a feeling of pride that I, too, may call myself a musician.
時に、君が起こしている行動は、トスカニーニや、ポーランド首相にしてピアノ奏者のイグナツィ・パデレフスキ、更には弦楽器奏者のブッシュ兄弟(兄のバイオリン奏者アドルフと、弟のチェロ奏者ヘルマン)らと共に、今日のドイツでは唯一、前向きな結果につながってきたものであり、その全ての源として共有する、我らが文化が永続して欲しいという、連帯意識と関心の念について、この私も自らを音楽家と称する誇りを心に抱こうと、そんな気持ちを駆り立てられているところだ。
320
Precisely these models of a high sense of duty, however, must prevent all our colleagues from accepting any compromise that might endanger the final goal.
だが実は、こういった高い責任感こそが、我らが同胞達をして、最後の目的を脅かすかもしれないような、そんな妥協は一切受け入れられないと、拒絶する要因となっているかもしれないのだ。
321
Although the Government’s declarations, which owe their origin to you, may represent the maximum of what may presently be attained, yet, unfortunately, I cannot accept them as sufficient for my re-participation in German concert life. My attitude is based on the following fundamental objective human and ethical considerations:
君の努力によりドイツ政府がこれまで発信してきたことは、現状成し得る最大限のところなのだろう。だが私には最大限とは受け入れられない。故に、ドイツでの演奏活動に戻ることはできない。この意図が基礎とするものを、基本的かつ客観的で、人道面からも倫理面からも考えたことを、以下に述べる。
322
The Government deems it necessary to emphasise the selective principle of highest achievement as the decisive one for music, as for every other form of art. This underscoring of something that ought to be self-evident would be meaningless if it did not imply a determination to apply the principle of selection on a racial basis—a principle that it is impossible to understand—to all other realms of culture.
現在のドイツ政府は、音楽にせよ、またあらゆる芸術活動にせよ、人種の選別については最高レベルでこれを達成することを、絶対に揺るがせないものと考えている。人種に基づいて選別を行うなど、他の文化活動ならどれをとっても、到底理解できない方針だが「それを何が何でも適用するぞ」とでも言いたいので無い限り、ここまで、なにかを「当然行うべきことだ」と強調するような行為は、意味を失いかねない。
323
Moreover, there is a wide gap between the announcement of the principle of achievement arbitrarily limited to art and its practical application—a gap that simply cannot be bridged. For included in the general concept of the advancement of art are, first and foremost, the institutions of learning and art collections.
もっと言えば、芸術にだけわざわざ限定して達成する方針だと宣言することと、それを実行に移すこととの間には、単純に考えても結びつけようがない、そんな大きなギャップがある。なぜなら、芸術活動が進歩進化したというのは、総じてどういうことなのか?を考えた時に、そこに含まれるものと言えば、何よりも先ず、「芸」を学び身につける各教育機関であったり、作品を収集整理することであったりするからだ。
324
As far as the special realm of the furtherance of the art of music is concerned, municipal and State Opera houses are an essential factor; yet no case has come to my attention of the intended reinstatement of those museum directors, orchestra conductors, and music teachers who were dismissed on account of their Jewish origin, their different political views, or even their lack of interest in politics.
音楽芸術の向上という具合に、特定の領域に絞って見る限り、自治体や国の歌劇場というものは、無くてはならない要素である。それなのに、こういった機関へ、音楽監督だの、管弦楽の指揮者だの、音楽面での指導に当たる人達だのが、ユダヤ系だからという理由で、あるいは酷い場合だと政治に興味関心が欠けているからという理由で、放逐された人達が、私の見聞きする範囲では、未だに復職していないとのことである。
325
In other words, the intention of “re-establishing the principle of achievement in art” by no means embraces art in general, or even the entire field of music. Merely the relatively narrow and special field of the concert or recital is to be restored to the free competition of those “real artists” who are to fill the concert hall.
別の言い方をすれば、「芸術における達成というものの原理原則を再構築する」という意図だというなら、そこに芸術活動に関わる全てのものが含まれるなど、絶対にありえないし、音楽活動だけに絞ったとしても、それに関わる全てのものが含まれるなど、絶対にありえない。演奏会やリサイタルという、比較的狭い特定の分野を単純に見てみても、ホールを大入り満員にするような「本物の音楽家」が誰かを、何の制約もない状態で比べて決めるべきなのだ。
326
And as every concert of importance is connected with extensive international publicity, while the research specialist or teacher can only on rare occasions appear before the public with the results of his work, it is quite conceivable that the few foreign or Jewish artists who have been asked to assist at such concerts might be used as arguments that everything is well culturally in Germany.
それに主要なコンサートはどれも、国や地域を限定しない知名度との関連性を持つべきである。一方で研究に専ら携わる者や、後進の指導に当たる者は、その実績があってこそ、少ない機会に人前に出られるようであるべきなのだ。そういう条件があってこそ、一つ一つの物事が、ドイツでは文化的に良い状態で存在するかどうかの議論をする上で、こういったコンサートを支えるよう、これまで要請されている、ドイツ国外の、あるいはユダヤ系の音楽家達が、活躍の場を与えられるとしても、数が少ないというのなら、考えられることだと言ってももっともだ。
327
In reality, German thoroughness would continue to find ever-new definitions for racial purity and apply them to the still immature student of art in the schools, laboratories, and so forth.
今のドイツの現状は、今までなら有り得なかったような「人種浄化」の定義付けを、更に見出そうとし続けるだろう。そしてそれを、音楽学校や研究施設に居るような、ろくに力もない学生だの何だのにまで、当てはめてゆくのだろう。
328
I am confident, of course, that you, honoured friend, would regret such a result quite as much as would the majority of German concert-goers.
誇り高き友人たる君よ、当然私は君が、そんな現状を、ドイツ国内で演奏会に足繁く通う人々の多くとともに、嘆かわしいと思っていると確信している。
329
There is, however, also a human-ethical side to the problem. I should like a definite rendering of music as a sort of artistic projection of the best and most valuable in man.
だがこの問題には、人道的/倫理的な面も存在するのだ。私は、人間の内面に在る、最も良質で、最も価値のあるものを、ある意味芸術的に投影するような、そんな音楽表現をしっかりと行うことが、好ましいと思うべきだと考えている。
330
Can you expect this process of sublimation, which presupposes complete abandonment of one’s self to one’s art, of the musician who feels his human dignity trodden upon and who is officially degraded to the rank of a pariah? Can you expect it of the musician to whom the guardians of German culture deny, because of his race, the ability to understand “pure German music”?
このプロセスを理想的なものにするには、自分自身を、自分が打ち込む芸術にすべて委ねることを、前提とする。だが、「自分」たる音楽家が、人間としての尊厳を踏みにじられたと感じ、行政による手続きをもって、社会から拒絶されたとする社会階層に貶められてしまって、そんな「前提」など、期待できると思うか?人種だの、「余計なものが混じっていないドイツ音楽」なんてものを理解する能力の有無だの、そんなもののせいで、ドイツ文化を監視している連中から否定される、そこまでされて、音楽家にどうこうなど、期待できると思うか?
331
At the same time they deliberately keep silent, on the one hand, concerning the half-Jewish origin of Richard Wagner, which has now been proved beyond peradventure of doubt, and on the other hand, concerning the historic rôle played by Mendelssohn, Anton Rubinstein, Hermann Levi, Joseph Joachim, and so forth.
ドイツ文化を監視している連中は、「否定する」のと同時に、故意に口をつぐむこともある。一つはリヒャルト・ワーグナーのことだ。彼は半分ユダヤの血が流れている。このことは今では疑う余地のないことだ。もう一つはフェリックス・メンデルスゾーン、ロシアのピアノ奏者アントン・ルビンシテイン、ドイツの指揮者ヘルマン・レーヴィ、それにハンガリーの指揮者ヨーゼフ・ヨアヒム(ヨアヒム・ヨージェフ)といった面々の、音楽史に残る役割を果たしてきたことだ。
332
You try to convince me by writing, “Someone must make a beginning to break down the wall that keeps us apart.” Yes, if it were only a wall in the concert hall! But the question of more or less than authoritative interpretation of a violin concerto is but one of numerous aspects—and, God knows, not the most important one—behind which the real problem is hidden.
「私達を分かつ壁を、だれかが破壊し始めないといけない」君は手紙にそう書いて、私を納得させようとしている。納得するさ、ただし音楽ホールの指揮者室とゲスト室の壁ならね!だがな、数え切れないほどの物事の、その後ろに本当に厄介な問題が隠されているのだ。バイオリン協奏曲の文句なしの演奏が出来るかどうかなど、その「数え切れないほどの物事」の一つに過ぎない。「その後ろにある」一番大事はことなどではない。
333
In reality it is not a question of violin concertos nor even merely of the Jews; the issue is the retention of those things that our fathers achieved by blood and sacrifice, of the elementary pre-conditions of our European culture, the freedom of personality and its unconditional self-responsibility unhampered by fetters of caste or race.
現実は、バイオリン協奏曲がどうのこうのだの、ユダヤ人がどうのこうのだのだって、それが問題ではないのだ。先祖達が血を流し犠牲を払って勝ち取ったことを守ること、私達のヨーロッパ文化の、最も基本的な前提条件を守ること、身分制度だの人種だのの束縛がない状態での人格の自由とその無条件の自己責任を守ること、これが問題なのだ。
334
Whether these achievements shall again be recognised depends not upon the readiness of the individual who is “the first to break through the wall that separates,” but, as in the past, upon the urge of the conscience of artists collectively, which, once aroused, will crash through sources of resistance with the impulse of a force of nature, breaking them as it would a paper wall.
こういったことを今一度成し得たことを、私達はこの目で確かめることができるかどうは、それがかかっているのは、「私達を分かつ壁をだれかが破壊し始めないと」という、個人がやれるかどうかではない。昔からの通り、道義心と善悪の判断ができる芸術家達が、一致団結して決起して、自然や神の力の衝動を得て、それこそ紙ペラの壁でも破くかのように、抗う力の源を以て破壊することを促さないと、できやしないのだ。
335
I cannot close this letter without expressing to you my deep regret at the conditions that have resulted in my being separated for the moment from Germany. I am especially grieved and pained in my relationship as a friend of my German friends and as an interpreter of German music who very much misses the echo awakened in his German hearers. And nothing could make me happier than to observe a change also outside the realm of concert life which would liberate me from the compulsion of conscience, striking at my very heartstrings, to renounce Germany. With warm greetings, Sincerely yours.
—BRONISLAW HUBERMAN.
最後にこれだけは君に伝えないと、この手紙を終えることはできない。目下私はドイツから離れていて、そのことで様々な事が起きている。その事を深く悔やんでいる。特に悲しく心痛極まりないのは、人間関係だ。同胞達の友人として、ドイツで演奏を聞きに来てくださる方達の心の中に演奏を届けることができない事を寂しく思うドイツ音楽の演奏者として、それを心痛く思う。そして今の私の心を少しでも幸せにしてくれるのは、ただ一つ、演奏活動以外のことでも今と変わった状況になることを見届けることだ。そうすれば、自らの道義心から衝動的に、心の奥深くで突き刺される思いをしつつ、ドイツを捨てていった私を、解放してくれることになるだろう。何卒ご自愛を、草々。
ブロニスラフ・フーベルマン
336
Huberman did not give up the struggle at this point, as is shown in the following letter to the Manchester Guardian, published on March 7, 1936, on the Nuremberg legislation and the destruction of intellectual freedom:
フーベルマンはこの時点では、諦めの念に駆られていたわけではなかったのです。その事がわかる書簡を以下御覧ください。「マンチェスター・ガーディアンズ」に掲載されたもので、1936年3月7日付けの記事です。ユダヤ人の公民権を剥奪したニュルンベルク人種法や、知的活動の自由の破壊について記されています。
337
SIR,
—I shall be glad if you will print the following “open letter” which I have addressed to the German intellectuals:
関係各位
以下、「公開書簡」として、ドイツ知識階層宛の私の書いたものを、貴紙にて掲載頂ければ、嬉しく存じます。
338
Since the publication of the ordinances regulating the application of the Nuremberg legislation—this document of barbarism—I have been waiting to hear from you one word of consternation or to observe one act of liberation. Some few of you at least, certainly must have some comment to make upon what has happened, if your avowals of the past are to endure. But I have been waiting in vain. In the face of this silence I must no longer stand mute. It is two and a half years since my exchange of correspondence with Dr. Wilhelm Furtwängler, one of the most representative leaders of spiritual Germany. It will be recalled that Dr. Furtwängler endeavoured to prevent me from publishing my refusal of his invitation to play with his orchestra in Germany. His astonishing argument was that such a publication would close Germany to me for many years, and perhaps forever. My answer on August 31, 1933, stated among other things:
ニュルンベルク人種法という蛮行の、施行が布告されて以来、私は諸君らが、一言でも動転恐怖の言を発するか、あるいは一挙手一投足でも自由解放の行動を起こすか、その知らせをずっと待っている。諸君らの中には、以前の言が依然健在なら、ここまでの出来事について、何らかコメントを既にしている者がいることは、少なくとも間違いないであろう。だが私の方は、それを待てど暮らせど音沙汰なし。諸君らの沈黙を前に、もはや私は黙っては居られなくなった。2年半前、私はヴィルヘルム・フルトヴェングラーと往復書簡を交わした。彼は優れた指揮者であり、ドイツの知性や精神を導く者達の中でも、最も際立った人物の1人だ。手兵ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のドイツでの演奏会に際し、ゲスト出演を私に依頼してきたのを、私はこの往復書簡で辞退したのだが、こんなものをもし新聞紙上に掲載しようものなら、彼はきっと全力で私を阻止するだろうと思われる。彼の論点は驚くべきものであり、このように公にすれば、私にとってドイツは今後長年、もしかしたら死ぬまでずっと、近いものとなるだろう。他の事柄と共に述べた私の回答が、以下、1933年8月31日付けのものである。
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“. . . In spite of this I would perhaps have hesitated with this publication if the chasm between Germany and the cultural world had not been rendered even more impassable by recent events. Nothing discloses more dreadfully the brutalization of large sections of the German population than the threats which have been published for weeks in the newspapers that German girls will be placed in the pillory if found in the company of Jews at coffee-houses or on excursions, or if they carry on love affairs with them. This kind of baiting could not fail to result in such bestialities of the darkest Middle Ages as described in The Times.”
「…こういったことにも関わらず、昨今の諸般の事情により、ドイツと他の文化文明諸国との間の溝が、更に修復不可能な状態に変えられてしまったのなら、これを公にするのは、やめておけばよかったのかもしれない。今後ドイツ人の若い女の子達は、喫茶店でユダヤ人と同席していたり、一緒に旅行したり、ユダヤ人と交際したりすることが発覚したら、汚名を着せられ世の晒し者となる、そんな新聞記事が、何週間にも亘ってドイツ国内の各新聞紙上に掲載された。ドイツ国民の大半にとって、こんな残酷なことが目に飛び込んでくることなど、他に考えられない。『ロンドン・タイムズ』にも掲載されている通り、そんな迫害的行為が起ころうものなら、間違いなく、中世暗黒時代の非道まがいのことが起きるに決まっている。」
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The description referred to was in the London Times of August 23, 1933, and told the story of a gentle Aryan girl who in punishment of her alleged commerce with a Jew was dragged in a pillory through the principal streets of Nuremberg amid the howls of the mob. As a consequence she suffered a stroke of insanity and was put in the asylum of Erlangen.
ここに書かれていることは、「ロンドン・タイムズ」の1933年8月23日の記事である。ある善良貞淑なるアーリア人の女の子に、世間が罰を与えたのだ。ユダヤ人との交際の疑い有り、とのことである。ニュルンベルク市の主な道路をすべて引きずり回され、暴徒共が喚き声を上げる中で晒し者にされたのだ。その後彼女は、精神錯乱を発生、バイエルン州エルランゲンの精神病院に放り込まれたのである。
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Dr. Furtwängler was profoundly revolted not only at the Nuremberg incidents, which he assured me he and all “real Germans” condemned as indignantly as I, but also against me because of my reference to the brutalization of large sections of the German population. He felt himself compelled to regard this as a “monstrous generalization which had nothing to do with reality.”
フルトヴェングラー氏が大いに不快に思ったのは、まずはこのニュルンベルクに関する様々な出来事で、彼が明言したのは、自分も、そして全ての「真のドイツ人達」も、この私同様憤然たる思いを抱くということ、それだけでなく、私に対しても不快に思ったのいうのだ。理由は、大勢のドイツ国民によるこの残虐行為について、私が触れたからとのこと。まるでこの一件を「現実とは何の関係もない、非人道的普遍化」と見なせと、強要されている気分になったというのである。
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In the meantime two and a half years have passed. Countless people have been thrown into gaols and concentration camps, exiled, killed, and driven to suicide. Catholic and Protestant ministers, Jews, Democrats, Socialists, Communists, army generals became the victims of a like fate. I am not familiar with Dr. Furtwängler’s attitude to these happenings, but he expressed clearly enough his own opinion of all “real Germans” concerning the shamefulness of the so-called race-ravishing pillories; and I have not the slightest doubt of the genuineness of his consternation, and believe firmly that many, perhaps the majority of Germans, share his feelings.
あれから2年半が経った。数えきれないほどの人々が、投獄された、収容所に押し込められた、国外に追放された、殺された、自殺に追い込まれた。カトリックの修道会会長も、プロテスタントの牧師も、ユダヤ教徒も、民主主義者も、社会主義者も、共産主義者も、軍の将官も、皆同じように犠牲になった。こういった出来事に対して、フルトヴェングラー氏がどのような態度をとっているのか、私はよく知らない。だが彼の、誰にもわかるように明言している自分の意見は、いわゆる人種問題に関して暴動行為を行って人をさらし者にすることについて、その恥ずべき行為に、全ての「真のドイツ国民」が関わっている、というのである。彼が心底驚き恐れていることは、私は微塵も疑いをはさむことはない。そして彼と同じ思いをしているドイツ国民は、間違いなく沢山、もしかしたら大多数であろうと、確信している。
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Well then, what have you, the “real Germans,” done to rid conscience and Germany and humanity of this ignominy since these make-believe Germans, born in the Argentine, in Bohemia, in Egypt, and in Latvia, have changed my alleged “monstrous generalization” to legal reality? Where are the German Zolas, Clemenceaus, Painlevés, Picquarts, in this monster Dreyfus case against an entire defenceless minority; where are the Masaryks in this super-dimensional Polna case? Where has the voice of blood, if not the voice of justice and common sense, been raised against the even more inhuman persecution of those born of mixed marriages between Aryans and Jews, and of pure Aryans who have the misfortune to be the spouses of Jews?
私が「実際に『非人道的普遍化』と言っても、あったかどうかも疑わしいようなことだ」と称したと、フルトヴェングラーが言ったと書いたが、それを、法的に現実のものにしてしまったのが、見せかけのドイツ国民達だ。彼らは生まれはアルゼンチンであったり、ボヘミアであったり、エジプトであったり、ラトビアであったりする。ならば、諸君ら「真のドイツ国民達」は、この不名誉を、道義心だのドイツ国家だの人間性だのから、根こそぎ取り払うために、いったい何をしてきたというのか?ドイツには、小説家のエミール・ゾラや、ジャーナリストのジョルジュ・クレマンソーや、政治家のポール・パンルヴィエや、軍人のマリー=ジョルジュ・ピカールのような人物はいないのか?このように理不尽な、アルフレッド・ドレフュス大尉の事件のようなことを目の前にして、自分を守る力すらない少数派の人々を全部まとめて立ち向かう人物はいないのか?ポルナ事件のように行き過ぎた次元の案件に立ち向かった、チェコ大統領トマース・マサリクのような人物はいないのか?正義の常識の声を上げられないなら、アーリア人とユダヤ人との間に生まれた子供達や、アーリア人の両親でありながらも身内にユダヤ人がいる子供達は、不幸にして、もっと酷い非人道的迫害にさらされているというのに、せめて血を流す覚悟の声が上がらないのか?
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Before the whole world I accuse you, German intellectuals, you non-Nazis, as those truly guilty of all these Nazi crimes, all this lamentable breakdown of a great people—a destruction which shames the whole white race. It is not the first time in history that the gutter has reached out for power, but it remained for the German intellectuals to assist the gutter to achieve success. It is a horrifying drama which an astonished world is invited to witness; German spiritual leaders with world citizenship who until but yesterday represented German conscience and German genius, men called to lead their nation by their precept and example, seemed incapable from the beginning of any other reaction to this assault upon the most sacred possessions of mankind than to coquet, cooperate, and condone. And when, to cap it all, demagogical usurpation and ignorance rob them of their innermost conceptions from their own spiritual workshop, in order thereby to disguise the embodiment of terror, cowardice, immorality, falsification of history in a mantle of freedom, heroism, ethics, German intellectuals reach the pinnacle of their treachery: they bow down and remain silent.
ドイツの知識階級の諸君を、私は全世界の人々の前で、告発し非難する。諸君らはナチスではない。だがナチスの連中が引き起こした犯罪行為全て、素晴らしい人々を悲しいほどに瓦解させた行為全て、これらは地球上のすべての白色人種の顔に泥を塗るような、破壊行為なのだ。その罪を、諸君は心底自覚しなければならない。馬鹿で無能な連中が権力を掌握するなどということは、歴史上今回が初めてというわけではない。だが諸君らドイツの知識階級の者達は、その馬鹿で無能な連中がやらかすことを、成功に導くアシストをした形に、今なおなった状態にあるのだ。そんな身の毛もよだつような、本当だったら脚本段階のただのドラマで済んだはずの、でも実現してしまった話に、全世界がご丁寧に及ばれされて、それを目の当たりにしているのだ。ドイツの知性や精神面をリードするといわれる連中は、「世界市民」としての立場でありながら、そしてつい昨日まで、ドイツの道義心と才能を代表する立場にありながら、自らが作った指針や規範、自らが成し遂げた事例、そういったもので国を引っ張っていくよう求められていながら、人類の所有する最も神聖なものに対して威迫行為が襲い掛かっているというのに、しょっぱなから何の反応も示すことができなかったようで、気まぐれ程度に自分達まで加担し、協力すらして、さらには「このくらい別に構わないだろ」などとしたのだ。挙句の果てに、自分達が怖かったくせに、臆病なくせに、不道徳なくせに、歴史を捻じ曲げたくせに、それを「自由だ、勇敢だ、道徳観だ」と覆いかぶせて偽りを装うために、彼ら自身が知性・精神面を磨くべく研鑽を積んできた中から、その最も奥の中心にある様々なコンセプトを、ナチスに煽られた挙句の強奪行為や惨状の無視に加担したせいで、奪い去ってしまったのだ。ドイツの知識階級の背信行為は、ここに極まれり。現状に屈服し、口を閉ざしたままである。
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Must, then, the Catholic Church and the Protestant Church in Germany battle alone in their truly heroic struggle for Germany’s honour, tradition, and future?
知識階級の諸君がこのざまだとなると、ドイツのカトリック教会もプロテスタント教会も、それこそ「勇敢だ」と称すべき闘争を展開し、ドイツの名誉と伝統、そして未来のために戦わねばならないと、諸君は言うのか?
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Germany, you people of poets and thinkers, the whole world—not only the world of your enemies, but the world of your friends—waits in amazed anxiety for your word of liberation. Yours, etc.—BRONISLAW HUBERMAN.
文化芸術のために筆を走らせる者と思いを巡らす諸君、ドイツと全世界は、それこそ諸君の敵だけでなく味方の世界も、驚きの心を抱く不安と切望の中で、諸君らが自由解放の言葉を発するのを、待ちわびているのだ。
草々。
ブロニスラフ・フーベルマン
https://www.youtube.com/watch?v=3WpyqEcr12k
recorded in 1933 on Columbia LB 8.
Note that Vladimir Horowitz followed to perform this particular Waltz opus of Chopin in many of his own recitals in his own Jewry.
Bronisław Huberman plays Frédéric François Chopin Waltz C Sharp Minor, Opus 64 no.2 (1933, Columbia)