SKETCH OF A New Esthetic of Music
BY FERRUCCIO BUSONI
音楽「シン・ビガク」概要 ~新しい審美眼~
フェルッチョ・ブゾーニ著
Translated from the German by
Dr. TH. BAKER (Theodore Baker)
ドイツ語→英語 訳
セオドア・ベイカー
NEW YORK: G. SCHIRMER 1911
ニューヨーク:G.シャーマー(1911年)
日本語訳:竹中弘幸(2023年)
ADDENDA
もう一つオマケに
FEELING—like honesty—is a moral point of honor, an attribute of whose possession no one will permit denial, which claims a place in life and art alike. But while, in life, a want of feeling may be forgiven to the possessor of a more brilliant attribute, such as bravery or impartial justice, in art feeling is held to be the highest moral qualification.
心の奥底の思い、例えば正直さや率直さというものは、自分にとっては精神面での誇りのようなものです。人の特質であり、誰かの許可などなくても、持てるものです。そして、心の奥底の思いは、普段の生活でも、芸術活動に取り組む上でも、それを発揮する場所を、自分にも他人にも求めてきます。ただ、普段の生活では、勇敢さとか、公正な正義感とか、そういう、どちらかというと「素晴らしいね」とされるような特徴を持つ人が、心の奥底の思いを発揮したいと言えば、許されるかもしれません。一方で、芸術活動に取り組む場合は、心の奥底の思い、というものは、最高の精神面での資格である、と考えられています。
In music, however, feeling requires two consorts, taste and style. Now, in life, one encounters real taste as seldom as deep and true feeling; as for style, it is a province of art. What remains, is a species of pseudo-emotion which must be characterized as lachrymose hysteria or turgidity. And, above all, people insist upon having it plainly paraded before their eyes! It must be underscored, so that everybody shall stop, look, and listen. The audience sees it, greatly magnified, thrown on the screen, so that it dances before the vision in vague, importunate vastness; it is cried on the streets, to summon them that dwell remote from art; it is gilded, to make the destitute stare in amaze.
ですが、音楽では、心の奥底の思いには、2つの「仲間」が必要です。一つは好みを分別を持って発揮することで、もう一つは「思い」の表し方です。人は普段の生活の中で、本当の意味での「分別ある好み」というものは、「偽りなき心の奥底の思い」と同じくらい、それを表に出す人を見かけることは、滅多にありません。「思いの表し方」といえば、これは芸術活動の縄張りです。「滅多にありません」とは逆に、よく見受けられるのは、涙もろさとか、興奮状態とか、大口をたたくとか、そんな風に言われるような、表情や態度に表れる、見かけの感情の動きです。そしてそれこそを、人は目の前で、分かりやすく繰り広げられることを、求めたがるのです!「分かりやすく」が強調されるため、皆が手や足を止め、じっと見つめ、じっと聴き入りますし、劇場の観客は、銀幕にぼんやりと、騒々しく、バカバカしさもある幻想が繰り広げられるよう、映し出されるのを目にしますし、街なかで大声で演じられれば、本来芸術活動とは縁遠い人々が集まってきてます。演じられるものは、うんと飾り立ててありますから、生活に困っている人などは、驚きと羨望の眼差しを、じっと向けてしまいます。
For in life, too, the expressions of feeling, by mien and words, are oftenest employed; rarer, and more genuine, is that feeling which acts without talk; and most precious is the feeling which hides itself.
普段の生活の中でも、心の奥底の思いを、表情や言葉で発信することは、よく行われています。滅多に行われない、それもどちらかというと、嘘偽りの無いのが、おしゃべりで演じられることのない、心の奥底の思いというやつです。中でも一番尊いものは、表にしゃしゃり出ようとしません。
FEELING
心の奥底の思い
“Feeling” is generally understood to mean tenderness, pathos, and extravagance, of expression. But how much more does the marvelous flower “Emotion” enfold! Restraint and forbearance, renunciation, power, activity, patience, magnanimity, joyousness, and that all-controlling intelligence wherein feeling actually takes its rise.
「心の奥底の思い」とは、優しさ、哀愁、贅沢、こういったものを表現したものを意味する、と、一般的には理解されています。ところが、せっかくのこういったものを、大いに包み隠してしまうものが、「揺れ動く感情」という、スンバラシイお花なのです(笑)。ですから、心の奥底の思いが、実際に姿を表すところには、自制心、辛抱、拒絶や諦め、力、実行、根気、寛大さ、喜びといった、全てをコントロールしようとする「知性」が存在するのです。
It is not otherwise in Art, which holds the mirror up to Life; and still more outspokenly in Music, which repeats the emotions of Life—though for this, as I have said, taste and style must be added; Style, which distinguishes Art from Life.
芸術活動も同じことです。芸術活動は、人の生活を映す鏡です。更には音楽では、比較的ズケズケと、日々の生活の中の「揺れ動く感情」を繰り返し発信します。ですがこれについては、既に申し上げましたとおり、「分別ある好み」と「思いの表し方」が、添えられねばなりません。この「思いの表し方」というものが、芸術活動と普段の生活を区別するものなのです。
What the amateur and the mediocre artist attempt to express, is feeling in little, in detail, for a short stretch.
アマチュアや、プロでも凡庸な音楽家は、「心の奥底の思い」を、矮小で、重箱の隅をつつくように、手頃なところまでしか、表現しようとしません。
Feeling on a grand scale is mistaken by the amateur, the semi-artist, the public (and the critics too, unhappily!), for a want of emotion, because they all are unable to hear the longer reaches as parts of a yet more extended whole. Feeling, therefore, is likewise economy.
アマチュアや、半端なプロの音楽家、一般大衆(そして残念ですが、評論家の皆様も!)といった人達は、大きくしっかりとした意味での「心の奥底の思い」と、「揺れ動く感情」とを、履き違えているのです。こう言った人達に、「大きくしっかり捉えろ」と言っても、実はそこから更に、もっと大きく広がる「心の奥底の思い」全体があることが、わからないので、それを音にしても、耳に届かないのです。だからこそ、「心の奥底の思い」というものには、一切無駄がないのです。
Hence, I distinguish feeling as Taste, as Style, as Economy. Each a whole in itself, and each one-third of the Whole. Within and over them rules a subjective trinity: Temperament, Intelligence, and the instinct of Equipoise.
このように、私は「心の奥底の思い」を、分別ある好み、表現の仕方、無駄の無さ、そんな風に認識しています。3つとも、別個の存在であり、同時に、全体の中の1/3なのです。この3つを、内側から、そして上からも支配するのが、気質、知性、バランスを求める人間の本能、この3人組の上役です。
These six carry on a dance of such subtility in the choice of partners and intertwining of figures, in the bearing and the being borne, in advancing and curtesying, in motion and repose, that no loftier height of artistry is conceivable.
この6つが躍動し続けるわけですが、それぞれ、他の5つの内、どれかと組んで一体化し、音楽の作成と発信、動と静、押しと引き、これらを、巧妙かつ最高の芸術性を発揮して行うのです。
When the chords of the two triads are in perfect tune, Fantasy may—nay, must—associate with Feeling; supported by the Six, she will not degenerate, and out of this combination of all the elements arises Individuality. The individuality catches, like a lens, the light-impressions, reflects them, according to its nature, as a negative, and the hearer perceives the true picture.
3つの音から構成される和音が2つ並び、これが完璧に調和すると、思いも寄らない発想が次々と生まれてきて、「心の奥底の思い」と結びつくかもしれません、いや、そうでないといけません。「この6つ」に支えられれば、もはや堕落の心配は無用です。そしてここから、あらゆる要素の組み合わせから生まれるのが、「個性」なのです。こうして生まれた「個性」は、目から光として入ってくる物の映像を、レンズのように捉え、その映像の本旨的な性質に沿って、反転画像としてこれを映し出します。これが聴手の知覚に入り、実際の姿を感じて捉えるのです。
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In so far as taste participates in feeling, the latter—like all else—alters its forms of expression with the period. That is, one aspect or another of feeling will be favored at one time or another, onesidedly cultivated, especially developed. Thus, with and after Wagner, voluptuous sensuality came to the fore; the form of intensification of passion is still unsurmounted by contemporary composers. On every tranquil beginning followed a swift upward surge. Wagner, in this point insatiable, but not inexhaustible, turned from sheer necessity to the expedient, after reaching a climax, of starting afresh softly, to soar to a sudden new intensification.
「心の奥底の思い」に携わる作業に、「分別ある好み」が関わるとなると、「心の奥底の思い」は、他の全ての物と同じく、年月や日時とともに、表現の仕方が変わります。つまり、「心の奥底の思い」のあらゆる相は、それぞれ選択される時が来て、その時は一面的な捉え方で、育まれます。大きく発展するとなると、尚更です。こうして、ワーグナーから始まって以降、官能、つまり性的魅力に対する好みが、表面化するのです。現代(1900年代初頭)の作曲家達は、圧の強い情熱を音楽形式にするという、難敵に、未だ打ち勝っていません。安定した曲の出だしの後には、いつも決まって、急激な感情の高まりがやってきます。この点、ワーグナーの手法はガッツキが凄まじく、といって、やりすぎてネタが尽きてしまうことも、全くありません。「在る方が都合が良い」程度の、単なる「必要性」から、「これが良いんだ」というレベルに変わってゆきます。曲の盛り上がりが最高潮に達すると、新たな穏やかさがおとずれ、そして急激に、新たな圧の強い情熱へと高まってゆくのです。
Modern French writers exhibit a revulsion; their feeling is a reflexive chastity, or perhaps rather a restrained sensualism; the upstriving mountain-paths of Wagner are succeeded by monotonous plains of twilight uniformity.
こういうのを嫌がるのが、現代のフランス人作曲家達です。彼らの「心の奥底の思い」は、反射的、上品、というよりむしろ、抑制の効いた官能主義と言っても良いかもしれません。ワーグナーの、がむしゃらな登山道の行き先は、平らな土地、それも、薄明かりの統一感漂う、変化の乏しいものです。
Thus “style” forms itself out of feeling, when led by taste.
こうして、「分別ある好み」に導かれると、「心の奥底の思い」の中から、「表現の仕方」が形作られるのです。
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The “Apostles of the Ninth Symphony” have devised the notion of “depth” in music. It is still current at face-value, especially in Germanic lands.
ベートーヴェンの第九を熱烈に愛する人達は、音楽の「深み」について、その持論を確立しています。これは今でも、特にドイツ系の国や地域では、その趣旨通りに通用しています。
There is a depth of feeling, and a depth of thought; the latter is literary, and can have no application to tones. Depth of feeling, by contrast, is psychical, and thoroughly germane to the nature of music. The Apostles of the Ninth Symphony have a peculiar and not quite clearly defined estimate of “depth” in music. Depth becomes breadth, and the attempt is made to attain it through weight; it then discovers itself (through an association of ideas) by a preference for a deep register, and (as I have had opportunity to observe) by the insinuation of a second, mysterious notion, usually of a literary sort. If these are not the sole specific signs, they are the most important ones.
「心の奥底の思い」や、「頭で考える思考」には、「深み」が存在します。後者は楽譜の書き方に反映され、音色には全く反映されません。これとは対象的に、「心の奥底の思い」の深みは、超自然的かつ精神に関わるもので、音楽の本質的な性格と、密接に結びついています。ベートーヴェンの第九を熱烈に愛する人達は、音楽の「深み」について、独自の、しかしながら、あまりハッキリしない判断の仕方を持っています。「深み」は「広がり・雄大さ」となり、それを得るために「重み」を用いようとします。すると「深み」は自ずと(様々な浅知恵と結びついて)、「深い(低い)音域」や2度の音を用いて謎めいた雰囲気を出そうとするという、多分に楽譜の書き方に関するものです。唯一無二の特別なやり方ではないにせよ、とても重要な手法です。
To every disciple of philosophy, however, depth of feeling would seem to imply exhaustiveness in feeling, a complete absorption in the given mood.
ただ、哲学を学ぶ者にとっては、「心の奥底の思い」とは、「思い」を尽くしたその底に在るもので、その場の雰囲気に、完全に自分を沈めること、そういうことを意味するのではないでしょうか。
Whoever, surrounded by the full tide of a genuine carnival crowd, slinks about morosely or even indifferently, neither affected nor carried away by the tremendous self-satire of mask and motley, by the might of misrule over law, by the vengeful feeling of wit running riot, shows himself incapable of sounding the depths of feeling. This gives further confirmation of the fact, that depth of feeling roots in a complete absorption in the given mood, however frivolous, and blossoms in the interpretation of that mood; whereas the current conception of deep feeling singles out only one aspect of feeling in man, and specializes that.
例えば、お祭りで盛り上がりまくっている群衆の真っ只中に、自分の身を置かれたら、その人は、体をよじらせながら不機嫌そうに、人混みをかき分けて進むとか、場合によっては「自分には関係ない」というオーラを出しながらとか、そうやって、仮面を付ける人や、種々雑多に人々が、大勢で色々なものを演じていたりしても、自分はノセられないとか、悪政を振りかざす権力に屈しないとか、頭のいい連中が復讐心をたぎらせて、暴動を起こそうとしても、付き合わないとか、そんな感じで、自分の心の奥底の思いを発信することが出来ない有様を、周りに晒すことになります。このことが証明しているように、「心の奥底の思い」の深みにあるものは、たとえどっぷりでなくとも、その場の雰囲気に自分の身を沈めることで、根を張り、その場の雰囲気を理解する中で、花を咲かせるのです。一方で、現代の「心の奥底の思い」の深いところについての、現代人の(1900年代初頭)物の見方をすると、「思い」の1つの面しか捉えようとせず、しかもそれを、ことさら特別なものに仕立て上げようとするのです。
In the so-called “Champagne Aria” in Don Giovanni there lies more “depth” than in many a funeral march or nocturne:—Depth of feeling also shows in not wasting it on subordinate or unimportant matters.
歌劇「ドン・ジョヴァンニ」に出てくる、通称「シャンパンの歌」には、凡百の葬送行進曲だの夜想曲だのよりも、「心の奥底の思いの深み」が宿っています。心の奥底の思いの深みは、同時に、二の次とされるものだの、重要性など無いものだの、そんなものに無駄に馳せられることもないのです。
ROUTINE
ルーティーン/お決まりのパターン
ROUTINE is highly esteemed and frequently required; in musical “officialdom” it is a sine qua non. That routine in music should exist at all, and, furthermore, that it can be nominated as a condition in the musician's bond, is another proof of the narrow confines of our musical art. Routine signifies the acquisition of a modicum of experience and artcraft, and their application to all cases which may occur; hence, there must be an astounding number of analogous cases. Now, I like to imagine a species of art-praxis wherein each case should be a new one, an exception! How helpless and impotent would the army of practical musicians stand before it!—in the end they would surely beat a retreat, and disappear. Routine transforms the temple of art into a factory. It destroys creativeness. For creation means, the bringing form out of the void; whereas routine flourishes on imitation. It is “poetry made to order.” It rules because it suits the generality: In the theatre, in the orchestra, in virtuosi, in instruction. One longs to exclaim, “Avoid routine! Let each beginning be, as had none been before! Know nothing, but rather think and feel! For, behold, the myriad strains that once shall sound have existed since the beginning, ready, afloat in the æther, and together with them other myriads that shall never be heard. Only stretch forth your hands, and ye shall grasp a blossom, a breath of the sea-breeze, a sunbeam; avoid routine, for it strives to grasp only that wherewith your four walls are filled, and the same over and over again; the spirit of ease so infects you, that you will scarcely leave your armchairs, and will lay hold only of what is nearest to hand. And myriad strains are there since the beginning, still waiting for manifestation!”
ルーティーンというものは、高い価値が在るものと見なされ、それを行うべしと求められることが、しばしばあります。音楽の世界で「官僚主義」を振りかざす所では、「必要不可欠なこと」とされています。音楽に取り組む上で、ルーティーンは在るべきだとか、もっと酷いのになると、ルーティーンは、音楽家としての誓いをたてる条件の一つだ、と命令されかねないこともあります。このことは、現代の私達の音楽芸術が、如何に貧弱であるかを証明するものです。ルーティーンばかりに偏ると、自らの経験と、生み出される音楽は、少なくなることは、既に証明されていることです。そして、何でもかんでもこれを適用して音楽を作れば、似たような作品ばかりが出てくることに、驚くに決まっています。一つ一つの取り組みが、都度新しく、都度今までにないもの、そんな風に自然に対する働きかけを行う、そんな自分を、私はいつでも思い描きたいと思っています!せっかく実践経験も問題解決能力もある音楽家が、揃いも揃って、ルーティーンを目の前に置いて、その場に立ち尽くして離れようとしないなど、なんと救いようのない、頼りないことか、と思います。そんなことでは、いずれ彼らは、音楽の世界から引き揚げて、二度と姿を表さなることでしょう。ルーティーンばかりに頼る姿勢では、芸術という神殿も、ただの製造工場に堕してしまいます。何もないところから、物事を創り出そうとする姿勢を、木っ端微塵にしてしまいます。こういうのを「命令に従って詩を詠む人」というのです。ルーティーンばかりに頼る姿勢は、自分自身を束縛することもあります。なぜならその姿勢では、型に押し込まれてしまうからです。音楽劇にせよ、管弦楽団にせよ、ソロ活動で腕を振るうにせよ、弟子をとって教えるにせよ、同じことです。「ルーティーンばかりに縛られるな!何事も、前例のない、流れに任せて取りかかればいいじゃないか!知識の詰め込みではなく、頭を働かせ、心のアンテナを張ろうじゃないか!なぜなら、聞いてみるがいい、一旦この世に生まれ、人の耳に届いたた無数のフレーズが、人間の歴史が始まって以来存在していて、音楽という空の、高いところを漂い出番を待っているのだ。それと同時に、このままでは決して人の耳に達することがないであろうフレーズも、数え切れないくらい存在しているのだ。両手を前に出して、花でも、潮風の息吹でも、陽の光でも、掴み取れ。ルーティーンばかりに縛られるな。そうなってしまったら、頼みもしないのに、自分の四方には壁が立ち上がり、そこに鷲掴みにされてしまう。逃げようとしても同じことが繰り返される。そのうち、気持ちが安らいで、その影響で、深々と座る椅子に座すがごとく、そこから離れられなくなる。そうなったら、一番手近なものにしか、手を伸ばさなくなる。せっかく無数のフレーズが、人間の歴史が始まって以来存在していて、音にされるのを待っているのにも関わらずだ。」そんな風に叫たいと思う人が、この世にいると思います。
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“It is my misfortune, to possess no routine,” Wagner once wrote Liszt, when the composition of “Tristan” was making no progress. Thus Wagner deceived himself, and wore a mask for others. He had too much routine, and his composing-machinery was thrown out of gear, just when a tangle formed in the mesh which only inspiration could unloose. True, Wagner found the clew when he succeeded in throwing off routine; but had he really never possessed it, he would have declared the fact without bitterness. And, after all, this sentence in Wagner's letter expresses the true artist-contempt for routine, inasmuch as he waives all claim to a qualification which he thinks meanly of, and takes care that others may not invest him with it. This self-praise he utters with a mien of ironic desperation. He is, in very truth, unhappy that composition is at a standstill, but finds rich consolation in the consciousness that his genius is above the cheap expedients of routine; at the same time, with an air of modesty, he sorrowfully confesses that he has not acquired a training belonging to the craft.
「私は不幸だ、なぜならお決まりのパターンというものを、何も持っていないからだ」かつてワーグナーが、リストに手紙でこう書き記したことがあります。この時ワーグナーは、楽劇「トリスタンとイゾルデ」の制作が、全然進んでいませんでした。こんな手紙を書くことで、ワーグナーは自分を欺き、他人に対して、仮面を被っていたのです。彼はお決まりのパターンを抱え込みすぎて、「ワーグナー作曲マシーン」の調子が狂ってしまったのです。全てがもつれて、その絡み方が、網目のようになってしまったのです。インスピレーションを働かせさえすれば、そんなものは解くことが出来たはずなのです。実際、ワーグナーは、お決まりのパターンを放り出しても大丈夫な、そんな手がかりを掴むことが出来ました。でも彼がお決まりのパターンなど、抱え込むようなことをしなかったなら、彼は自分のありのままを、最初から苦もなく表現していたことでしょう。そして、いずれにせよ、ワーグナーが手紙の中で書いたこの一文は、真に芸術性のある人間は、お決まりのパターンなど、重くは見ていないことを表しています。同じように、彼は、周りの人間が「ここまでやってほしい」と望む声も、彼自身がそれを下劣だと思えば、耳を貸さないのです。そうやって、周りの人間が、彼にあれこれと注ぎ込むようなことをしないよう、自分自身用心しているのです。こんな自画自賛な物言いを、彼はしていますが、その表情は、皮肉めいた絶望感をにじませているのです。彼は曲作りが行き詰まっていて、本心から不幸な状況でした。しかし彼は、自分の才能が、お決まりのパターンなどという、安っぽい手段などよりも、上を行っている事に気づいて、大いに心が安らぐのです。それと同時に、控えめな態度で、その曲作りに関わる自分磨きを、未だ行えていないことを、残念そうに告白しているのです。
The sentence is a masterpiece of the native cunning of the instinct of self-preservation; but equally proves—and that is our point—the pettiness of routine in creative work.
この手紙の一文は、人間が持って生まれた、本能的に自分を守ろうとするずる賢さを、見事に表している傑作です。しかし同時に、ここが私達が抑えておきたいところですが、創造的な取り組みをする上で、お決まりのパターンやルーティーンばかりに縛られることが、いかにしょうもないことかを、証明するものです。
RESPECT THE PIANOFORTE!
ピアノという楽器を敬え!
RESPECT the Pianoforte! Its disadvantages are evident, decided, and unquestionable: The lack of sustained tone, and the pitiless, unyielding adjustment of the inalterable semitonic scale.
ピアノという楽器を、敬いましょう!確かにピアノは、音量をまっすぐ持続できませんし、変更のしようのない半音階なるものを、容赦なくガッチリ設定されてしまっていて、その不利な点は、明白で、決定的で、今更問い直すまでもありません。
But its advantages and prerogatives approach the marvelous.
ですが、その不利な点が在るからこそ、そしてそれとは別に、卓越性も在るゆえに、素晴らしいものをやってのけることができるのです。
It gives a single man command over something complete; in its potentialities from softest to loudest in one and the same register it excels all other instruments. The trumpet can blare, but not sigh; contrariwise the flute; the pianoforte can do both. Its range embraces the highest and deepest practicable tones. Respect the Pianoforte!
ピアノは、一人の人間が、全て揃っているところへ、思いのままに指示を効かせることができます。一番小さな音量から、一番大きな音量まで、どんな表現でもできる潜在能力や、同じ音色で最低音から最高音までの音域は、他のどの楽器も及びません。トランペットは、咆哮することには長けていますが、溜息をつくような吹き方は、ままなりません。フルートは、その逆です。ピアノは、両方とも出来ます。最高音から最低音まで、どの音も、自由自在に演奏に使えるものです。ピアノという楽器を敬いましょう!
Let doubters consider how the pianoforte was esteemed by Bach, Mozart, Beethoven, Liszt, who dedicated their choicest thoughts to it.
お疑いなら、バッハやモーツアルト、ベートーヴェンやリストが、自ら持てる最高の考えや思いを、ピアノに託した、その事実をお考え下さい。
And the pianoforte has one possession wholly peculiar to itself, an inimitable device, a photograph of the sky, a ray of moonlight—the Pedal.
そしてピアノには、独自の、他の楽器には真似の出来ないものがあります。大空や月の光を、写真に収めるように描くことができるもの、それがペダルです。
The effects of the pedal are unexhausted, because they have remained even to this day the drudges of a narrow-souled and senseless harmonic theory; the treatment accorded them is like trying to mould air or water into geometric forms. Beethoven, who incontestably achieved the greatest progress on and for the pianoforte, divined the mysteries of the pedal, and to him we owe the first liberties.
ペダルがもたらす演奏効果は、未だ人類は使い尽くしていません。なぜなら、偏狭な精神に基づく、センスのない和声理論の持つ、つまらない仕事という枠組みから、今日も依然として出ていないからです。ペダルがもたらす、数ある演奏効果が受けている仕打ちは、例えて言うなら、空気だの水だとの言った、形のないものを使って、幾何学模様を描こうとするようなものです。ベートーヴェンは、明らかに、音楽史上最も大きくピアノを進化させた人物ですが、ペダルに何ができるかの謎を、直感で探り当てました。私達がピアノを自由に使える、その入口に立てているのは、彼のお陰です。
The pedal is in ill-repute. For this, absurd irregularities must bear the blame. Let us experiment with sensible irregularities.
ベダルに対しては、悪評もあります。これは、ペダルの使い方が雑だからだと言えます。ぜひ私達は、細心の気を遣い、その上で慣例にとらわれない、そんなペダルの使い方を、色々試してみましょう。
L'ENVOI
手紙
I FELT … that the book I shall write will be neither in English nor in Latin; and this for the one reason … namely, that the language in which it may be given me not only to write, but also to think, will not be Latin, or English, or Italian, or Spanish, but a language not even one of whose words I know, a language in which dumb things speak to me, and in which, it may be, I shall at last have to respond in my grave to an Unknown Judge.”
思ったのは…この本は、英語版も、あるいはラテン語版も、出さないほうが良いということです。理由は一つ…要は、私が書くにせよ考えるにせよ、それはラテン語でもなければ英語でもない、イタリア語でもなければスペイン語でもない、一語残らず自分が知っている、そしてくだらんことでも、私が分かるように語りかけてくる、そしておそらく、私が死んだ後も、墓の下から、誰が下したかわからない判断に対し、私が応えられる、そんな言語で書くべきだろう、そう思っています。
(Von Hofmannsthal: A letter.)
(フーゴ・フォン・ホーフマンスタールに宛てた手紙)
https://www.youtube.com/watch?v=DTGArGe_L68
Don Giovanni: Champagne Aria · Ezio Pinza · Wolfgang Amadeus Mozart
Sketch of a New Esthetic of Music, by
Ferruccio Busoni
*** END OF THIS PROJECT GUTENBERG EBOOK SKETCH OF A NEW ESTHETIC OF MUSIC ***