SKETCH OF A New Esthetic of Music
BY FERRUCCIO BUSONI
Translated from the German by
Dr. TH. BAKER (Theodore Baker)
NEW YORK: G. SCHIRMER 1911
Copyright, 1907 By FERRUCCIO BUSONI
Copyright, 1911 By G. SCHIRMER
日本語訳:竹中弘幸(2023年)
第3回(全5回)
WHAT IS MUSICAL?
「音楽的な」とは?
THE term “musikalisch” (musical) is used by the Germans in a sense foreign to that in which any other language employs it.[I] It is a conception belonging to the Germans, and not to culture in general; the expression is incorrect and untranslatable. “Musical” is derived from music, like “poetical” from poetry, or “physical” from physic(s). When I say, “Schubert was one of the most musical among men,” it is the same as if I should say, “Helmholtz was one of the most physical among men.” That is musical, which sounds in rhythms and intervals. A cupboard can be “musical,” if “music-works” be enclosed in it.[J] In a comparative sense, “musical” may have the further signification of “euphonious.”—“My verses are too musical to bear setting to music,” a noted poet once remarked to me.
「musikalisch」(ドイツ語の「音楽的な」)という言葉が、ドイツの人々によって使われる時は、他のいかなる言語にもない意味を持ちます[I]。「音楽的な」というのは、ドイツの人々の持つ概念です。この地球上の文化を見渡してみた時、どの文化にもこう言った概念があるか、といえば、そうではないのです。これは、不完全な物の言い方で、異なる言語の間で置き換えかねる言葉です。「音楽的な」とは、「音楽」から生まれた言葉です。「詩的な」が「詩」から、「自然科学の」が「自然科学」から生まれたのと、同じですね。「シューベルトは全人類の中でも、非常に音楽的な人の一人だ」と私が言うとします。これは「ヘルマン・ヘルムホルツは全人類の中でも、非常に自然科学的な人の一人だ」と言うのと、同じです。「あれは音楽的だね」と言うのは、「リズム」や「間」が取られている聞こえ方をしている、という意味になります。衣服や食器を収納する戸棚は、中に「音楽作品」がしまってあれば、「音楽に関するような」と言えます[J]。相対的な見方をすれば、「音楽的な」とは、「耳に心地よい」という言葉の意味の、更に深く大きくしたものを持つと言えるかもしれません。ある高名な詩人が、かつて私にこんなことを言いました「私の書く詩文は、音楽的すぎて、曲をつけることができない。」
[I] The author probably had in mind the languages of southern Europe; the word is employed in English, and in the tongues of the Scandinavian group, with precisely the same meaning as in German. [Translator's Note.]
【注I】英訳者注
ブゾーニは、ヨーロッパ南部諸国の言語のことを、念頭に置いていると考えられます。「音楽的な」という言葉は、英語にありますし、北欧諸国の言語にも見られます。しかもそれは、完全にドイツ語と同じ意味を持つものです。
[J] The only kind of people one might properly call musical, are the singers; for they themselves can sound. Similarly, a clown who by some trick produces tones when he is touched, might be called a pseudo-musical person.
【注J】
人間に対して「あの人は音楽的だ」と呼ぶのに、適切と言えるのは、「歌を歌う人達」に対してだけかもしれません。というのも、彼ら自身、自ら音楽を発信することが出来るからです。同じように、ピエロが、その熟練の技で、体を触られた時に、面白い音を口から発信する時、「音楽的っぽい人」と言えるかもしれません。
“Spirits moving musically
To a lute's well-tuned law,”
霊魂達が 音楽にでもノッているかの如く あたりを漂う
調子の良いリュートに合わせる様に似て
writes Edgar Allan Poe. Lastly, one may speak quite correctly of “musical laughter,” because it sounds like music.
エドガー・アラン・ポーの作品です。最後にもう一つ例を。「音楽的な笑い声」は、結構的を得た言い方かもしれません。何しろそれ自体、音楽のように聞こえるからです。
Taking the signification in which the term is applied and almost exclusively employed in German, a musical person is one who manifests an inclination for music by a nice discrimination and sensitiveness with regard to the technical aspects of the art. By “technics” I mean rhythm, harmony, intonation, part-leading, and the treatment of themes. The more subtleties he is capable of hearing or reproducing in these, the more “musical” he is held to be.
「音楽的な」という言葉に当てはめられ、そして概ね、ドイツ語だけが実際に用いている意味を見てみると、「音楽的な人」というのは、音楽の技術面について、特別な扱い方と感性を駆使することによって、「自分は音楽に興味関心がありますよ」と、口に出して言う人、ということになります。「技術面」と言いましたが、これは、リズム、和声、音量や速度の起伏、アンサンブルの声部割り振り、それに、色々とモチーフを用意してそれを使いこなす方法、こういったことを意味します。これらを、耳で捉え自ら音にしてみせることが、絶妙にやれるほど、その人の「音楽的な」は、さらに増すのです。
In view of the great importance attached to these elements of the art, this “musical” temperament has naturally become of the highest consequence. And so an artist who plays with perfect technical finish should be deemed the most musical player. But as we mean by “technics” only the mechanical mastery of the instrument, the terms “technical” and “musical” have been turned into opposites.
音楽芸術の、こう言った技術面の各要素が持つ、大変な重要性を鑑みると、ここまで論じてきた「音楽的な」気性・気質というものは、当然のことながら、その「技術面の各要素」がもたらす成果の中でも、最も高い重要性をもつ、ということになるかと思います。そうなると、技術的な面で、完璧なものを以て演奏する音楽家、という者が、最も「音楽的な」演奏者なのか、ということになってきます。ところが、「技術」という言葉は、「楽器(自分の『声帯』等の肉体も含む)の使い方をマスターしていること」、そういう意味しかありません。こうなると、「技術的な」(実技)と「音楽的な」(気性・気質)という、この2つの言葉は、対をなすもの、と言えるのです。
The matter has been carried so far as to call a composition itself “musical,”[K] or even to assert of a great composer like Berlioz that he was not sufficiently musical.[L] “Unmusical” conveys the strongest reproach; branded thus, its object becomes an outlaw.[M]
こうなってくると、楽曲それ自体を「音楽的な」だの[K]、ベルリオーズのような素晴らしい作曲家のことを「あいつは音楽的とは言い切れないな」だの[L]、そんなことまで言い出す人が現れます。「非音楽的な」などと言うものなら、これ以上の酷い非難はありません。そんな風に烙印を押されてしまったら、無法者扱いですし、追放された者扱いになってしまいます[M]。
[K] “But these pieces are so musical,” a violinist once remarked to me of a four-hand worklet which I had characterized as trivial.
【注K】
私が「ありふれた曲ですね」と評した、ある弦楽四重奏曲について、「でもこれらは非常に音楽的ですよ」と、かつて私に言ったバイオリン奏者がいます。
[L] “My dog is very musical,” I have heard said in all seriousness. Should the dog take precedence of Berlioz?
【注L】
「我が家の犬は、非常に音楽的です」と、大真面目に言っているのを聞いたことがあります。ベルリオーズより、その犬のほうが上、ですかい?!
[M] Such has been my own fate.
【注M】
私自身、そんな運命にさらされたことがあります。
In a country like Italy, where all participate in the delights of music, this differentiation becomes superfluous, and the term corresponding is not found in the language. In France, where a living sense of music does not permeate the people, there are musicians and non-musicians; of the rest, some “are very fond of music,” and others “do not care for it.” Only in Germany is it made a point of honor to be “musical,” that is to say, not merely to love music, but more especially to understand it as regards its technical means of expression, and to obey their rules.
イタリアのように、演じる側も見る側も、全員が音楽の喜びの輪に加わって浸るような国では、「音楽的か、そうでないか」などという差別化は、不必要だということになります。ですのでイタリア語には、ここでいう「音楽的な」という意味を持つ語は、見当たらないのです。フランスのように、実際に使われている「音楽」という言葉の意味が、人となりを決めつけるようなことが無い国では、存在するのは、「音楽を仕事にする人」とそうでない人であり、「そうでない人」については、「音楽が大好き」か「興味がない」のどちらか、です。ドイツ語だけが、「音楽的な」に「名誉」といったものが、つまり、単に「音楽が好き」ではなく、むしろ、特に音楽表現の技術的な手段に関して、理解し自分のものにしているかどうか、そして、そのルールに従っているか、という意味を持つのです。
A thousand hands support the buoyant child and solicitously attend its footsteps, that it may not soar aloft where there might be risk of a serious fall. But it is still so young, and is eternal; the day of its freedom will come.—When it shall cease to be “musical.”
「音楽」という、この元気一杯の子供には、ものすごく多くの人の手がかかっていて、その子供が歩む足跡に、大いに気を遣って注意を向けているのです。そうすることで、落とし穴の危険がありそうなところで、逆に極端に飛び上がりすぎないように、監視しているのです。ですが、それでもなお、音楽という子供は、とても幼く、そして永遠に幼いままなのです、いつか「本来自由な」が訪れます。その時、音楽は、「監視されて保つような、音楽的な状態」では、なくなっているべきです。
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THE creator should take over no traditional law in blind belief, which would make him view his own creative endeavor, from the outset, as an exception contrasting with that law. For his individual case he should seek out and formulate a fitting individual law, which, after the first complete realization, he should annul, that he himself may not be drawn into repetitions when his next work shall be in the making.
音楽を新たに生み出す者は、伝統的な規則を、引き継いでゆくにしても、それは盲目的であってはいけません。そんなことをしたら、せっかく自分だけが持つ創造性豊かな「あれもしたい、これもしたい」があるのに、「こんなものは、『伝統的な規則』に相反する例外的なものだ」と、最初から思い込んでしまうことになるのです。自分独りになれるケースについては、そのケースに上手く当てはまる、独自の「規則」を、自分から求めて作ってゆくべきなのです。そうやって第1号の完成したものが出来上がったら、それはもう無いものとして、次の音楽を作る時に、それを繰り返し用いないようにしなければいけません。
The function of the creative artist consists in making laws, not in following laws ready made. He who follows such laws, ceases to be a creator.
創造性豊かな音楽家の頭の中は、どんな構造をしているかと言うと、自分で「規則」を次々と作ってゆくようになっていて、他の人が既に作った「規則」を、追随してばかり、なんてことは、しないのです。そういう人は、音楽を新たに生み出すことを、辞めてしまう、ということになるのです。
Creative power may be the more readily recognized, the more it shakes itself loose from tradition. But an intentional avoidance of the rules cannot masquerade as creative power, and still less engender it.
人は、物事を新たに生み出す力を見出すのを、自ら進んで、難なく出来るようになればなるほど、その力が独りでに、「伝統的な規則」による縛りを、ますます緩くしてくのかもしれません。ですが、そういった規則の数々を、意図的に拒否したところで、それで「新たに生み出す力がある」ふりをすることは、叶いません。それでは依然として、新たに物を生み出す力は、足りない状態です。
The true creator strives, in reality, after perfection only. And through bringing this into harmony with his own individuality, a new law arises without premeditation.
その力を、本当に持っている人というのは、自らが円熟の域に、少しでも到達するべく進んでゆこうと、努力しているのが、実際のところなのです。そしてそれを、自分だけの持ち味と調和せることを通して、新たな規則というものが出現します。これは、前もって「あーでもない・こーでもない」と考える中からは、出現しないのです。
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So narrow has our tonal range become, so stereotyped its form of expression, that nowadays there is not one familiar motive that cannot be fitted with some other familiar motive so that the two may be played simultaneously. Not to lose my way in trifling,[N] I shall refrain from giving examples.
現在は、音階や調整の幅が狭くなっており、音楽表現のあり方も、決まった形のものばかりが目立つようになっています。近年では、よく耳にされるモチーフは、たいてい他の、これまたよく耳にされるモチーフと、ピッタリ組み合わせることが出来てしまうので、これら全く違うモチーフを、同時に鳴らすことだって、できてしまう有様です。このことばかりに無駄に紙面を割くつもりはありませんので[N]、例は挙げません。
[N] With a friend I once indulged in such trifling in order to ascertain how many commonly known compositions were written according to the scheme of the second theme in the Adagio of the Ninth Symphony. In a few moments we had collected some fifteen analogues of the most different kinds, among them specimens of the lowest type of art. And Beethoven himself:—Is the theme of the Finale in the “Fifth” any other than the one wherewith the “Second” introduces its Allegro?—or than the principal theme of the Third Piano Concerto, only in minor?
【注N】
以前、無駄に時間を割いて、友人と一緒に、よく知られた楽曲の一体幾つが、ベートーヴェンの「第九」の、アダージョに出てくる第2主題の持ってゆき方を参考にして書かれているか、これを徹底的に調べたことがあります。4,5分と調査をしないうちに、全然違う曲なのに、とても良く似ている物同士というのを、15組も見つけてしまいました。その中には、音楽作品としては最も程度の低いものの部類に入るものも、幾つかありました。そしてベートーヴェン自身にも:「運命」最終楽章の主題は、交響曲第2番のアレグロの導入だったり、ピアノ協奏曲第3番のメインとなるテーマ(但し短調)だったりするのか?という話です。
https://www.youtube.com/watch?v=ecDhLebBBhc
Deutsche Welle and Unitel Classica present Estonian conductor Paavo Järvi and the Deutsche Kammerphilharmonie Bremen recorded at the Beethovenhalle Bonn 2009.
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That which, within our present-day music, most nearly approaches the essential nature of the art, is the Rest and the Hold (Pause). Consummate players, improvisers, know how to employ these instruments of expression in loftier and ampler measure. The tense silence between two movements—in itself music, in this environment—leaves wider scope for divination than the more determinate, but therefore less elastic, sound.
現在の音楽(1900年代初頭)のうちで、音楽芸術の本質に最も迫るものとして、「休符」そして「全休止」といったものがあります。譜面を見ながら演奏する者も、またインプロヴィゼーションを駆使する者も、円熟の域に達したならば、こうした音楽表現を、より高く、より豊かなレベルにて使いこなすものです。2つの動機の間に存在する、この緊張感のある「静寂の間」は、この状況においては、それ自体が音楽なのです。誰が聞いても分かるような、だからこそ融通の効かない音を鳴らすよりも、この方がよほど、次に何が起こるのだろうか、という期待感と予感を大きく持たせてくれるものです。
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MUSIC, AND SIGNS FOR MUSIC
音楽それ自体と、それを表す音符について
What we now call our Tonal System is nothing more than a set of “signs”; an ingenious device to grasp somewhat of that eternal harmony; a meagre pocket-edition of that encyclopedic work; artificial light instead of the sun.—Have you ever noticed how people gaze open-mouthed at the brilliant illumination of a hall? They never do so at the millionfold brighter sunshine of noonday.—
私達が「調性」と呼んでいるものは、単に「音符」をずらりと並べたもの、それ以上でも、それ以下でもありません。世に言う「不朽の調和した和音」などと弄するものが、何であるかを、把握するための、実に巧妙なる手段です。私などに言わせれば、いかにも「博学」と言わんばかりの産物の、貧弱極まりないお手軽なまとめ方であり、例えるなら、太陽を真似た電球のようなものです。劇場の聴衆が、輝くばかりの光のイルミネーションを、呆気にとられて見つめるのを、ご覧になった方はおられますか?同じことを、その百万倍明るい太陽の光を、真っ昼間に見たとしても、あっけにとられるなどということは、ありません。
And so, in music, the signs have assumed greater consequence than that which they ought to stand for, and can only suggest.
同じことが音楽にも言えます。今では音符が、本来意味し、演奏者に単に「こうしてはどうだろうか」と提案しているだけなのに、それ以上の重要性を持たされているのです。
How important, indeed, are “Third,” “Fifth,” and “Octave”! How strictly we divide “consonances” from “dissonances”—in a sphere where no dissonances can possibly exist!
やれ、「これは3度だ」「これは5度だ」、あるいは「これは1オクターブだ」などと、下にも置かない有様です。「協和音」と「不協和音」の境界線を、厳格に敷いてしまって、これではまるで、不協和音など、本来存在し得ないものだと、言っているようなものです。
We have divided the octave into twelve equidistant degrees, because we had to manage somehow, and have constructed our instruments in such a way that we can never get in above or below or between them. Keyboard instruments, in particular, have so thoroughly schooled our ears that we are no longer capable of hearing anything else—incapable of hearing except through this impure medium. Yet Nature created an infinite gradation—infinite! who still knows it nowadays?[O]
私達は1オクターブを均等に12に分割しています。こうでもしないと、演奏や作曲が、ままならなかったからです。そして今ある楽器を、12に分割した、その上にも下にも音が出せないように、作ってしまっています。特にピアノに代表される鍵盤楽器は、そうやって私達の耳を徹底的に躾けてしまい、もはや12に分割された音以外は、耳に入ってきてもわからなくなってしまっています(何かガラクタを用いたり、本来的な奏法でないやり方をすれば話は別ですが)。しかし人の手の及ばない自然というものは、1オクターブの中に、無限のグラデーションを創り出しているのです。無限ですよ!そのことをわかっている人が、今の世の中、どこを見ても居なくなってしまっているのです[O]。
[O] “The equal temperament of 12 degrees, which was discussed theoretically as early as about 1500, but not established as a principle until shortly before 1700 (by Andreas Werkmeister), divides the octave into twelve equal portions (semitones, hence ‘twelve-semitone system’) through which mean values are obtained; no interval is perfectly pure, but all are fairly serviceable.” (Riemann, “Musik-Lexikon.”) Thus, through Andreas Werkmeister, this master-workman in art, we have gained the “twelve-semitone” system with intervals which are all impure, but fairly serviceable. But what is “pure,” and what “impure”? We hear a piano “gone out of tune,” and whose intervals may thus have become “pure, but unserviceable,” and it sounds impure to us. The diplomatic “Twelve-semitone system” is an invention mothered by necessity; yet none the less do we sedulously guard its imperfections.
【注O】
「平均律に基づく12の音、というものが理論的に論じられたのは、西暦1500年頃に遡る。しかしそれが「原則」として確立されたのは、1700年になる直前であった(アンドレアス・ウェルクマイスターによる)。1オクターブを12の均等な音程間隔に分けて(半音を用いるため、「12平均律」と称する)、それを通して、音価が得られるとしている。どの音高差も完全に純粋ではなく、しかしながら、いずれも音楽づくりには、大いに有用である(ヒューゴー・リーマン著「音楽辞典)より)[P]。」このようにして、アンドレアス・ウェルクマイスターという、音楽の名職人のおかげで、私達が手にしているのが、「半音を用いる12平均律」なるシステムで、全てが純粋ではなく、しかしながら大いに有用である、とのこと。だが「純粋」だの「純粋でない」だのというのは、そもそも何なのでしょうか?よく「ピアノの調律が狂った」というのを、耳にしますよね。こうなると、ピアノの、音と音との間隔が「純粋だが有用でなくなって」、私達の耳には「純粋でない」ように聞こえる、というわけです。「半音を用いる12平均律」などと御大層なことを言っていますが、その実は、必要に迫られて出来上がったものであり、それなのに、本質的に不完全なものであるにも関わらず、私達はこれを、わざわざせっせと「否定してはならん」と擁護しているのです。
THE CONTRACTED SYSTEM OF MUSIC
自分で自分の首を絞めるような音楽の仕組み
And within this duodecimal octave we have marked out a series of fixed intervals, seven in number, and founded thereon our entire art of music. What do I say—one series? Two such series, one for each leg: The Major and Minor Scales. When we start this series of intervals on some other degree of our semitonic ladder, we obtain a new key, and a “foreign” one, at that! How violently contracted a system arose from this initial confusion,[P] may be read in the law-books; we will not repeat it here.
そして、12進法であるこの「1オクターブ」というものの中で、音同士の間隔を固定して、これをずらりと並べ(数は7つ)、音楽芸術の全ての基本を、ここに乗せてしまいました。なんと呼んだらいいのか、「1並び」と言いましょうかね。2つ、こうした「並び」があって、それぞれの並びの区切りに「長調の音階」と「短調の音階」があります。これと同じ間隔をもつ「並び」を、別の高さの音から、12ある半音全部の並びの中から選んで始めると、新しい「音階」の出来上がりです。最初のと比べると、「今までになかった」ものと称されるのです!出発点からして混乱が生じている[P]、その中から、自分の首を絞めるようなシステムが生まれ出てきた、それがどれほど危険なものなのか、「楽典」という自由を縛る書物を読めば分かります。ここでは、それを持ち出して繰り返すような説明はしません。
[P] It is termed “The Science of Harmony.”
【注P】
これを「和声学」と称しています。
***
We teach four-and-twenty keys, twelve times the two Series of Seven; but, in point of fact, we have at our command only two, the major key and the minor key. The rest are merely transpositions. By means of the several transpositions we are supposed to get different shades of harmony; but this is an illusion. In England, under the reign of the high “concert pitch,” the most familiar works may be played a semitone higher than they are written, without changing their effect. Singers transpose an aria to suit their convenience, leaving untransposed what precedes and follows. Song-writers not infrequently publish their own compositions in three different pitches; in all three editions the pieces are precisely alike.
私達は子供達や学生に、音楽を教える際に、24ある調性をもつ音階を扱います。1つの音について2つ、それぞれが、7つの音が並んでいます。ですが実際は、今私達が使いこなせているのは、「長調」と「短調」の、たった2種類です。24ある音階は、調が移っているだけなのです(移調)。移調を繰り返すことにより、様々な色合いの和声を創り出すことが出来る、そういうことになっています。ですがこれは、そう聞こえるだけなのです。イギリスでは、「演奏会では音程は高めに取る」という、王様のように支配する考え方があり、有名な曲の大半が、実際の譜面よりも半音高く演奏されてしまうことがあります。それも、曲の演奏効果を変えることなく、です。歌手達は自分のいいように、アリアを移調してしまい、しかもその前後の調性は、そのままにしておくというのです。作曲家達はたいてい3つの調性で楽曲を出版します。そして3つのバージョンとも、聞こえ方は完璧に同じに聞こえるのです。
When a well-known face looks out of a window, it matters not whether it gazes down from the first story or the third.
例えば1つの建物の窓から、自分がよく知っている人の顔が見えるなら、その顔が1階から見えようが、3階から見えようが、どうでもいい、という理屈です。
Were it feasible to elevate or depress a landscape, far as eye can reach, by several hundred yards, the pictorial impression would neither gain nor lose by it.
仮に、その建物のある風景全体が、数百メートル単位で、拡大/縮小しようとも、風景全体から得られる印象は、新たにたされる要素もなければ、失われる要素もない、ということなのです。
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MAJOR AND MINOR
Upon the two Series of Seven, the major key and the minor key, the whole art of music has been established; one limitation brings on the other.
長調と短調という、2つある7つの音の並びに従って、音楽芸術全体が作られています。そして一つの制約が、別の制約を生む、そのようになっているのです。
To each of these a definite character has been attributed; we have learned and have taught that they should be heard as contrasts, and they have gradually acquired the significance of symbols:—Major and Minor—Maggiore e Minore—Contentment and Discontent—Joy and Sorrow—Light and Shade. The harmonic symbols have fenced in the expression of music, from Bach to Wagner, and yet further on until to-day and the day after to-morrow. Minor is employed with the same intention, and has the same effect upon us now, as two hundred years ago. Nowadays it is no longer possible to “compose” a funeral march, for it already exists, once for all. Even the least informed non-professional knows what to expect when a funeral march—whichever you please—is to be played. Even such an one can anticipate the difference between a symphony in major and one in minor. We are tyrannized by Major and Minor—by the bifurcated garment.
長調と短調には、それぞれに明確な特徴がある、とされています。この両者は、互いに対を成して聞こえるとして、私達は先人から教わり、後世にそう伝えています。この両者は、徐々にその記号の重要性が増してきているのです。それらは、「長調と短調」「満足と不満」「歓びと悲しみ」「光と影」などと、されています。和声を示す記号は、バッハの時代からワーグナーまで、音楽表現の中に厳重に匿われていて、それは今日までずっと、そして明後日も続くことでしょう。「短調」というものは、200年前から、同じ意図、同じ演奏効果をもたらします。今では、葬送のための行進の音楽を、「今までにない形で創り出す」などということは、もはや不可能です。葬送行進曲とはどんな曲か、何でも好きな曲を選ぶにしても、それを演奏することになったら、世間が何を求め期待するかについては、アマチュアの、それも勉強量が一番少ない音楽家でさえ、知っています。そんな音楽家でさえ、交響曲でも、長調と短調で、聴けばその違いくらいは分かるものです。私達は、長調と短調という、ズボンのような二股の衣服を着るよう、虐げられているのです。
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Strange, that one should feel major and minor as opposites. They both present the same face, now more joyous, now more serious; and a mere touch of the brush suffices to turn the one into the other. The passage from either to the other is easy and imperceptible; when it occurs frequently and swiftly, the two begin to shimmer and coalesce indistinguishably.—But when we recognize that major and minor form one Whole with a double meaning, and that the “four-and-twenty keys” are simply an elevenfold transposition of the original twain, we arrive unconstrainedly at a perception of the UNITY of our system of keys [tonality]. The conceptions of “related” and “foreign” keys vanish, and with them the entire intricate theory of degrees and relations. We possess one single key. But it is of most meagre sort.
長調と短調が、正反対なものだと感じなければならないなんて、奇妙な話です。どちらも見た目やパッと聞いただけでは、同じなのに、一つは相方よりも楽しく喜びに満ちて、もう一つはこれに対して深刻な顔つきをしている。両者は、筆をサッとひと塗りしただけで、長調は短調に、短調ハ長調に、あっという間に変わってしまうのです。あるパッセージが、長調から短調(短調から長調)へ変化するのは、面倒な手続きはありませんし、いつ変化したのかが気づかないほど微妙なものです。この変化が、頻繁に、しかも素早く起こると、このパッセージの長調と短調が、チラチラ光ってゆらめき、見分けがつかないくらいに一体化して聞こえてきます。ですが、もし私達が、長調と短調は、2つの意味を持つ1つのものを形作っていることに気づき、そして、先程から述べています「24の調性を持つ音階」が、実は単に、一番最初の「長調と短調」の組み合わせを、「2つ折り」ならぬ「11回折り」にして、移調しただけのものだ、ということに気づきます。すると私達は、「様々な調が集まったら、一体のものとして捉えて良い」(定型的な和声を使うという、作曲の基本)ということを、否が応でも認識させられるところまでやってきます。各調が互いに「関連している」「無関係である」というコンセプトは消え失せて、それとともに、「何度」というような音の高さの違いや、違う音同士の関連性についての、複雑な理論全体も、消え失せるのです。そうやって手に入るのは、たった1つの音階だ、というのです。でもそんなものは、この上なく貧弱な類のものです。
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“Unity of the key-system.”
—“I suppose you mean that ‘key’ and ‘key-system’ are the sunbeam and its diffraction into colors?”
「様々な調が集まったら、一体のものとして捉えて良い」
「それって、『調』とか『様々な調がどのような関係を持つか』というのは、太陽光線が光の回折で様々な色を出すのと、同じだということですか?」
No; that I can not mean. For our whole system of tone, key, and tonality, taken in its entirety, is only a part of a fraction of one diffracted ray from that Sun, “Music,” in the empyrean of the “eternal harmony.”
そうではありません。そういう意味は有り得ません。音色にせよ、音階にせよ、調性にせよ、これを全体一つのまとまりとして見てみれば、それは、太陽、すなわち「音楽」という、「何があっても調和を保ち続ける」という理想郷に存在するものから発せられた、分散された光の中の一つの光線の、そのまた小さな部分の、そのまた一部に過ぎないのです。